ニコッと笑いかけてくる晴菜ちゃんに気圧されて、奥歯を噛み締める。春夜君を『春君』呼びの衝撃に身を強張らせながらも、ハッキリと口にする。

「だめだよ」

 晴菜ちゃんを睨む。

「晴菜ちゃん。それだけは許せないよ」

「何で? 聡ちゃんの事も譲ってくれたじゃない? 明ちゃんより先に、春君と知り合ったのは私だよ。それに今……明ちゃんは聡ちゃんと付き合ってるから、春君とは付き合ってない筈だよね?」

 感情の読めない……不気味にも思える笑顔で私を見ている晴菜ちゃんを見つめ返す。一呼吸分、置いて答える。

「私、晴菜ちゃんが思ってる程……いい子じゃないよ」

 彼女は一度、大きく瞬きをした。私の言動の意図を掴めていないのかもしれない。胸にある決意を告げる。

「欲しいものは、親友を押しのけても絶対に渡さない。絶対に春夜君の手を放さないよ」

 晴菜ちゃんが目をぱちくりさせている。やがて彼女は……心底、楽しそうに笑い出した。

「聞いた? 岸谷に沢西。沢西は愛されちゃってまあ、おめでとー。岸谷は振られちゃったね?」

 彼女は明るく言い及んだ後で、岸谷君の方を向いた。

「岸谷はその子がいるから、きっと寂しくないよね?」

 晴菜ちゃんに指摘された岸谷君よりも、彼の腕にしがみついている姫莉ちゃんの方が悔しそうに見える。彼女は晴菜ちゃんを、鋭い目で睨んでいる。

「これがお前のシナリオ? これじゃお前の望みと違……」

「全部、岸谷が悪いんだよ?」

 何か言い掛けていた岸谷君を遮り、晴菜ちゃんは彼を責める。楽しそうに笑いながら。

「本当に好きな子にしか『可愛い』って、言っちゃダメなんだよ?」

 晴菜ちゃんの言葉に「さっき、岸谷君が姫莉ちゃんに言っていたなぁ」と思い出す。
 同時に。晴菜ちゃんの岸谷君への、底知れぬ恨みを垣間見た気がする。


「私、岸谷君に幻想を抱いてた。片想いしてた時、きっと相手も一途に私を好きでいてくれてるって思ってた。付き合ってもいないのに都合よく考え過ぎてた。晴菜ちゃんの事も、よく知らなかったんだって分かった。……二人の事、全然分かってなかった!」

 隣にいる春夜君に、心情を打ち明ける。彼は優しい表情で応じてくれる。

「友達でも、違う人間ですからね。岸谷先輩も坂上先輩の事を、まだ分かってないみたいなので……思い知らせてやりましょう」

 春夜君が人の悪い、強気な笑みを浮かべている。
 彼の肩越しに岸谷君を見る。視線が合う。「本当に……さよならだ」心の中で別れを告げて、瞼を閉じる。唇に触れる温度を受け止めた。

 もし春夜君に裏切られていたとしても……恨めないよ。私はもう、春夜君のものだから。相手に想われていなかったとしても。春夜君は晴菜ちゃんを振り向かせたくて、私と――……。

 自分の思考に泣きそうになって、慌てて笑う。春夜君との復讐も、これで終わりなのかも。

「最後にありがとう。もう十分だよ」

 覚悟して伝える。春夜君が細くした目を向けてくる。

 何か、僅かに。
 呆れられているような雰囲気を感じる。

 再度、重ね合う直前に……言い含められた。

「今はオレの事だけ考えてて下さい」



「あースッキリした! これで私の復讐も完了ね」

 晴菜ちゃんが清々しい表情で言い、背伸びをしている。

「よくも滅茶苦茶にしてくれたな。邪魔ばかりして」

 岸谷君が晴菜ちゃんを睨んだ。

「何の事?」

 晴菜ちゃんは背伸びをやめ、真顔で岸谷君を見る。

「そんなに俺の事が好きなの?」

「……は?」

 岸谷君の言動に、晴菜ちゃんは心底呆れたと言いたげな様相で聞き返している。やがて彼女は笑い始めた。

「好きだなんてよく言えるよ、岸谷。……明ちゃんにはもう相思相愛の相手がいるから。好い加減、諦めてよね」

「さあ……どうしようかな? 代わりに、俺を満足させてくれる?」

 岸谷君は目を細め……左腕に姫莉ちゃんをしがみ付かせたまま、右手で晴菜ちゃんの左頬に触れている。晴菜ちゃんは左手で、岸谷君の右手を払いのけた。

「タイプじゃない」

 言い捨てた彼女に、岸谷君は寂しげな笑顔を向けている。

「退屈さえ埋まればいいんだ」

 岸谷君が呟く。晴菜ちゃんは、彼を睨み付けている。

「じゃあ何で、悲しそうな顔してるのよ。ホント馬鹿なんだから。あんたの日頃の行いを見てたら、私の明ちゃんは絶対に渡さないって気になるんだよ。これで諦めないんだったら、これからも邪魔してやるから!」

 晴菜ちゃんの宣言に、岸谷君は苦笑いした。

「坂上は俺が最初に見付けた一番大好きな人だから、こんな寂しい気持ちになるんだろうな……」

「知らなーい!」

 晴菜ちゃんは呆れた様子で言い置き、岸谷君に背を向け歩き出している。後を付いて来る岸谷君と姫莉ちゃんにイラッとしたようで、トゲのある声が聞こえる。

「ちょっと、もう付いて来ないでよ! 今日の話は終わり! 明日は午前中に彼氏とデートの約束してて、今日は早めに寝ないといけないのよ。久しぶりに会うのよ! 邪魔しないで!」

「え?」

 岸谷君と私と春夜君の声がハモった。
 晴菜ちゃん……彼氏いたの? あれ? でも岸谷君とキスしてたよね? ???

 晴菜ちゃんは足早に帰って行った。残された私たちのいる公園が少しの間、静寂に包まれる。虫の音や風の音に交じって、誰かの腹の虫が鳴いた。

「聡! 姫莉、お腹空いた! 早く聡の家に行こう?」

 姫莉ちゃんが岸谷君の腕を引っ張っている。

「あ、ああ……」

 呆然とした様子だった岸谷君が、引っ張られて坂を上って行く。彼は去り際、こちらに右手を挙げてきた。

「じゃあ、坂上……またな」

 言われて、少し返事に困る。取り敢えず「う、うん。またね」と返した。


「岸谷先輩……『またな』って。もしかして、まだ明の事……諦めてないのかな?」

 岸谷君たちが大分遠くなった頃、呟きを耳にする。春夜君の眉間には皺が寄っていて、表情が険しい。

 その時、スカートのポケットに入れていたスマホが振動した。取り出して見ると通知が何件か来ている。ありすちゃんから一件と、親から二件。

 ありすちゃんのメッセージを読む。「その後どうなったのか、今度教えてね」という内容で、親からは「遅い! お鍋が冷めちゃったよ」というものだった。

「あー」

 声が漏れる。親に連絡するのを忘れてた。もう十時四十五分だし。バスの最終便の時間も、とっくに過ぎている。春夜君を見る。

「春夜君。もしよかったら、うちに泊まっていかない? 今日、お家の人いないんだよね? お鍋でよかったら作ってるらしいから」

 誘うと、彼は暫く無言だった。そして私は思い至る。春夜君は晴菜ちゃんが好きだから、私の家には泊まりたくないのかも。誘ったのが晴菜ちゃんだったら、きっと喜んでくれたんだろうな。

「あ……」

 虚しくなって取り消そうと口を開いた時、答えが聞こえた。

「いいんですか? オレ……今、凄く嬉しいです」

「う、うん。もちろん!」

 言いながら内心考える。あれっ? 喜んでもらえるなんて。……きっと私じゃないほかの友達に誘われても、こんな風に言ってくれるんだろうな。凄くいい人だ。



 休み明けの火曜日。屋上で、ありすちゃんと話した。春夜君も一緒だ。

「そういう事だったのね」

 ありすちゃんが納得した雰囲気で頷く。

「分かった。教えてくれてありがとう。じゃあ、私はこれで……」

 彼女は不自然に……早々と、教室へ戻ろうとしている。

「えっ? ありすちゃん?」

 去り行く背中に呼び掛ける。少しだけ振り向いてくれた。言い残される。

「圧が凄くて耐えられない。後の昼休みは彼氏さんと過ごしなよ」

「圧?」

 ありすちゃんの言っている事が、よく分からない。そして恋人のフリをしていた名残で、春夜君との関係を勘違いされているようだった。


「ありすちゃん勘違いしてたね。私たち付き合ってないのに。『恋人のフリをしてた』って、打ち明けた方がいいかな?」

 ありすちゃんが屋上から去った後で、春夜君に聞いてみる。彼は事もなげに言う。

「本当に付き合ったら、言う必要ないですよね?」

「えっ?」

 思わず相手を見つめる。口を衝いて疑問が零れる。

「どういう意味?」

 彼は目を細めて、こっちを見ている。
 前髪を弄られた。気を取られている内に唇が合わさる。瞬きの間程の出来事だった。

「こういう意味です。そろそろオレの好きな人が、誰か……分かりました?」

 尋ねられて一時、逡巡する。意を決して伝える。

「うん。大丈夫。分かってる。春夜君が何で今も、私を好きなフリしてるのかも……分かってるから」

「…………絶対、分かってないですよね?」

 何でだろう。否定された。

「分かってるよ」

 少しムキになってしまい、語気を強めに発する。ハッキリ言っておく。

「春夜君が、晴菜ちゃんを好きな事」

 彼は一拍、言葉に詰まったような顔をした。私は今まで心の内に抑えていた思いを吐露する。

「全部……今までの事は全部……晴菜ちゃんを振り向かせる為にしてたんだよね? 晴菜ちゃんに頼まれたから? それとも私を好きなフリして、彼女の気を引きたかったの?」

 惨めだ。嫌な女だと思う。自分も、本当は晴菜ちゃんの事も……大嫌いだ。

「は? あっ? オレの好きな人が、内巻先輩?」

 私が言い当てるとは思っていなかったのだろう。戸惑っている様子に「そう」なのだと確信する。悲しくて瞳を伏せた。彼の懐へ身を寄せる。晴菜ちゃんの所へは行かせない。伝える。

「岸谷君と話して、ちゃんとお別れする」

 この間の公園ではハッキリしないまま帰ったので、あっちがまだ付き合っている認識だったら困ると思っていた。

「私が嫌だから。好きな人としかイチャイチャしたくないから。私は全部、春夜君とがいい」

「もう、そういう事言うの……」

 疲れた様相で、溜め息をつかれた。額に指を置き俯いた彼は、頭の痛そうな顔で言ってくる。

「オレに心開き過ぎでしょ。前も言いましたよね? 勘違いするって。その言い方だと、オレの事が好きみたいに聞こえますけど。もうオレの事を好きなフリしなくていいんですよ? 復讐は終わりなんですよね? これ以上そんな態度なら……本気にしますよ?」

「いいよ」

 すぐさま答えた。相手は絶句している。

 予鈴が鳴った。自然と綻んでしまう顔を見られるのが恥ずかしくて、先に歩き出す。
 大事な件を済ませよう。振り向いて告げる。

「私、春夜君が好きだよ」