医局へ戻る途中、白衣の裾がふわりと揺れた。
角を曲がったその先で、結衣がカルテを抱えて立っていた。
少し汗ばんだ額をぬぐい、淡々とした声で言う。
「お疲れ様です。」
すれ違いざま、軽く会釈して通り過ぎようとする結衣を、陽向先生は咄嗟に呼び止めた。
「橘さん。」
結衣が振り向く。
その仕草が、何故か胸を強く締めつけた。
「……はい?」
「いや、その……」
陽向は一度息を整え、真剣な表情で口を開いた。
「最近、他の先生とか、患者さんとかに何か言い寄られたりしてない?
もし困ってることがあったら、僕に言って。力になるから。」
「え?」
一瞬、結衣の目が丸くなった。
それから小さく瞬きをして、
「それは、陽向先生も含めて……ですか?」と淡々と返す。
陽向はガーン、と漫画のように固まった。
「……あ、いや、それは……えっと……」
しどろもどろになっている陽向の姿に、
結衣は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ。冗談です。ありがとうございます。」
その笑顔。
わずかに口元をゆるめて、頬が柔らかく光る。
夏の午後の光が、白衣の袖越しに反射して眩しかった。
陽向は、その瞬間、息をするのを忘れた。
心臓の音が、自分でもわかるほど響いていた。
「(橘さんが、笑った……。)」
目を見開いたまま、結衣が廊下の向こうへ歩き去るのを見つめていた。
去っていく背中を、いつまでも目で追ってしまう。
誰もいなくなった廊下で、陽向は額に手を当てた。
「うわぁ……なんだあれ……。可愛すぎる……。」
独り言のように呟いた声は、空調の音にかき消されていった。
その夜。
家に帰った結衣は、窓を開け放って夏の夜風を感じていた。
風がレースのカーテンをふわりと揺らす。
あの時の陽向先生の真剣な目。
そして――あの言葉。
“僕が力になるから。”
心のどこかで固く結んでいた糸が、
ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
「……ばかみたい。」
呟いた声は、蝉の鳴き声と混じって夜の空気に溶けた。
それでも。
夏の生ぬるい風が、
なぜか心地よかった。



