辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする

 静枝が小さく咳払いをした。沙耶は視線を落として、両手をギュッと握りしめる。
 つまり、静枝に言わせれば、沙耶も涼花も匠真の結婚相手としてふさわしくないのだ。
「私の言いたいこと、わかっていただけたかしら?」
 静枝は顎を持ち上げて、沙耶を見下ろすようにした。沙耶はゆっくりと口を動かす。
「それは、匠真さんも了承されているということでしょうか?」
「当たり前じゃない。だから、アメリカから戻ってきたのよ。でも、結婚するまでは自由に恋愛したいから、今はあなたと付き合ってるんですって。けれど、このままだったら、みんなが傷つくだけよ。あなたもだけど、凛子さんもね」
 沙耶は下唇を噛みしめた。その苦しそうな表情を見て、静枝は一度眉をギュッと寄せる。
「私たちにはもうあの子だけなのよ。お願いだから、わかってちょうだい」
 それだけ言うと、静枝は沙耶にパッと背を向けた。そのまま速足で歩きだし、やがて伊吹会病院に向かう角を曲がって、姿が見えなくなる。
 沙耶はゆっくりと息を吐きだした。知らない間に息を詰めていたようで、胸が苦しい。
(匠真さんは結婚を考えている人がいるのに、どうして私にあんなことを言ったの……?)
『沙耶のことをずっとかわいいなって思ってた。今はかわいくてきれいで、どうしようもなく独り占めしたい』
 そうささやいてくれた匠真の甘い声が耳に蘇って、目の奥がじわりと熱くなった。
(私が匠真さんと付き合っていたら、たくさんの人を傷つけるんだ……)
 涼花だけでなく、匠真と結婚して伊吹会病院を支えるつもりの凛子も。そして凛子と匠真の結婚を望んでいる静枝も。
(『結婚するまでは自由に恋愛したい』なんて、そんな割り切り、私にはできないよ)
 涙がポロリと頬を伝った。
(仕事に戻らなくちゃいけないのに……)
 ぼんやりと手を動かして涙を拭ったとき、カランというベルの音がして、涼花の声が聞こえてきた。
「沙耶ちゃん?」
 沙耶はゆっくりと振り返った。涼花が心配顔で沙耶に近づいてくる。
「なにを言われたの?」
 本当はつらいはずの涼花が沙耶を気遣ってくれている。そのことにまた涙がこぼれそうで、沙耶は瞬きを繰り返した。
「匠真くんとの付き合いを反対されたの?」
 涼花に訊かれて、沙耶はゆっくりとうなずいた。
「匠真さんは伊吹会病院を継ぐためにアメリカから戻ってきたんだって言われました」