辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする

 沙耶は下唇をギュッと噛みしめた。
 匠真の苦しそうな声が聞こえてくる。
「すまない」
「やっぱり私じゃ……ダメだったんだね……」
 涼花が顔を上げて匠真を見つめた。匠真はつらそうに表情をゆがめて、涼花の肩をそっとなでる。
「そんなことはない」
「ううん、わかってる」
 涼花は顔を上げた。彼女を見つめる匠真の表情は、苦しそうなまま変わらない。
 涼花は涙で濡れた横顔に、かすかな笑みを浮かべた。
「ねえ、お願いがあるの。〝すず〟って呼んでくれないかな。これっきりって約束するから、とびきり甘くて優しい声で、私を呼んでほしい」
 あまりに切なく悲しい声に、胸が張り裂けそうに痛くなった。
 沙耶は静かにドアを閉めて、そろりと後ろに下がった。コートの胸元をギュッと握りしめる。
(涼花さんが昼、あんなにつらそうにしてたのは、私が匠真さんと付き合ってるからなんだ……)
 匠真のことは大好きだ。けれど、涼花にも大きな恩がある。涼花がプラチナで雇ってくれたおかげで、好きな仕事に打ち込めた。父の入院を知ったときに支えてくれたから、父と母との関係がよくなった。
 それなのに、なにも知らずに匠真に恋に落ち、彼を想う涼花から匠真を奪ってしまったのだ。そしてあんなふうに涼花を苦しめ、傷つけた。
 あまりの罪悪感に、吐き気すら覚える。
 沙耶は息苦しさに耐えながら、バックヤードの大型冷蔵庫にもたれた。
 涼花たちの声は聞こず、ふたりの様子はわからない。
 けれど、いつまでもここで息を潜めているわけにもいかない。
 いつ涼花に声をかけようかと考え込んでいたら、匠真の声が聞こえてきた。
「沙耶?」
 驚いて顔を向けると、彼がドアを開けてバックヤードを覗いていた。
 ドアが開く音がしなかったので、気づかなかった。
「あ、た、匠真さん! ど、どうしたんですか!?」
 沙耶はびっくりしてつかえながら声を発した。匠真の声が怪訝そうになる。
「そんなに驚いてどうしたんだ?」
「いえ、だって、まさかこんな時間に来るなんて思わなくて」
「今日は仕事が比較的落ち着いてたから」
「そ、そうだったんですね」