辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする

 気がかりに思いながらも、沙耶はバックヤードに入った。大きな冷蔵庫を開けて、中の食材を確認する。
 ハニーマスタードソテーにするための豚肩ロース肉のブロック、フライドチキン用の鶏モモ肉、それに鮭の包み焼きにするための鮭の切り身。それから副菜の野菜やキノコ類。
 続いて調味料の棚を見た沙耶は、マスタードが残り少ないことに気づいた。
(これじゃ、絶対に足りない)
 沙耶はキッチンに戻って、ハーブティーをブレンドしている涼花に声をかける。
「涼花さん、私、マスタードを買いに行ってきますね」
「あれっ、もうなくなっちゃってた?」
 涼花は専用の計量スプーンを持った手を止めて沙耶を見た。
「いえ、少しあったんですけど、明日、途中でなくなりそうで」
「そうだったんだ。だめね、私が発注し忘れたんだわ。悪いけど、買い物、お願いするね」
「はい。行ってきます」
 沙耶はエプロンを外してコートを羽織ると、裏口から外に出た。線路を渡り、駅の反対側にある輸入食材店に入って、調味料の棚でマスタードを探す。普段プラチナで使っているマスタードは涼花が業務用のものを卸売業者から購入しているのだが、それとは違うものがいくつかあって、つい興味を引かれた。
(あっ、このお店、マスタードシードも売ってるんだ!)
 以前動画で、あるフレンチのシェフが自家製マスタードの作り方を紹介していた。シェフは『自家製マスタードはやはり香りが違いますよ~。フレッシュなスパイスならではの味わいです!』と絶賛していた。
(前から作ってみたいと思ってたんだよねーっ)
 とはいえ、初めて作ったものをいきなりお客さまに出すわけにはいかない。あとで涼花さんに相談してみよう、と思いながら、必要な量のマスタードだけを買って店を出た。
 スマホを見たら、プラチナを出てから三十分以上経っている。
(急いで帰らなくちゃ)
 一段寒くなった空気の中、急ぎ足で来た道を戻った。裏口のドアを開けて中に入る。涼花に声をかけようと、バックヤードから店内に続くドアに手をかけて押した瞬間、涼花の声が聞こえてきた。
「やっぱり忘れられない。大好きなの、愛してるの」
 悲痛な声に驚いて手が止まった。ドアの隙間から男女の横顔が見える。両手で顔を覆っている涼花と、その彼女の両肩にそっと手を置いている匠真。
 次の瞬間、涼花はわっと泣き声を上げて匠真にしがみついた。匠真の胸に顔をうずめ、肩を震わせて泣いている。
(大好きって……愛してるって……)
 涼花は匠真のことが好きだったのか。