辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする

 エレベーターホールに着いて、沙耶は両手をギュッと握った。
 彼はヘアメイクサロンを予約してくれて、おいしい料理をごちそうしてくれた。沙耶の言葉を楽しそうに聞いて、温かく受け止めてくれた。
 こんなにステキな時間をくれた彼にも、本当の意味で気分転換してほしい。今までの感謝を込めてお礼がしたい。
 その思いに押されて、思い切って口を開く。
「でしたら、今度は私の気分転換に付き合ってくれませんか?」
「もちろん。沙耶さんから誘ってくれて嬉しいよ」
 隣で微笑む匠真の笑顔から目が離せない。
 オードブルが運ばれてくる前、このまま彼に見つめられていたら恋に落ちてしまいそう、と思ったが、それは違う。
(もうとっくに恋に落ちていた……)
 彼は沙耶を励ますために誘ってくれたのに。そう自分の気持ちを戒めようとすればするほど、切なさが募り、沙耶は視線を落とした。
「沙耶さん?」
 頬に柔らかく手が触れて、沙耶はビクリと肩を震わせた。匠真が頬をくすぐるようにするので、つい顔を上げたら、沙耶を見つめる匠真と視線がぶつかった。
 心の中まで見透かそうとするかのような、どこか熱のこもったまっすぐなまなざし。
 沙耶は気持ちを気取られまいと、彼から逃れるように一歩下がった。
「あの、すみません。メイクを直してきてもいいですか?」
 宙に残った匠真の手が、ギュッとこぶしを握った。手を下ろして、匠真はかすかに口元を歪める。
「ああ。ここで待ってるから、あわてなくていい」
「はい」
 沙耶は小さく頭を下げてフロアの隅にあるトイレに急いだ。パウダールームの鏡の前に座って、大きく息を吐く。
 鏡に映る自分の顔は、目が潤んで頬が紅潮していた。
(こんな表情を見られたら、気持ちに気づかれてしまう)
 匠真はモテるけれど、『本人はそういうの、迷惑してるみたい』と言っていた涼花の言葉が耳に蘇った。
 沙耶の気持ちを知ったら、プラチナは彼にとってもう居心地のいい空間ではなくなってしまう。
(とにかく落ち着こう)
 化粧ポーチを取り出したとき、スマホの通知ライトが点滅しているのに気づいた。画面を見ると、一時間前に父からメッセージが届いていた。