辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする

「沙耶さんも飲んでみて」
 匠真に言われて、沙耶はグラスに手を添えた。グラスの中のワインは深みのあるルビー色をしている。グラスを持ち上げたら、瑞々しさのある甘酸っぱい香りがふわっと立った。ひと口含むと、わずかな甘みとほどよい苦味が舌の上に残る。
「わあ」
 今まで飲んだことのない上質なワインに、沙耶はほうっと息を吐いた。
「口に合うかな?」
 匠真に訊かれて、沙耶はうなずいた。
「はい! ほどよい酸味が絶対にブフ・ブルギニョンに合うと思います! 食べるのが楽しみです」
「ブフ・ブルギニョン、沙耶さんもよく作るの?」
「よくってことはないです。クリスマスとか特別なときに作るくらいで。牛肉の赤ワイン煮込みはフランス料理の定番とも言われますけど、いろんなシェフや料理家のレシピがたくさんあって、お気に入りをひとつに絞り切れないんですよねー。正直、どれもおいしくて。でも、特に好きなのは、ブルゴーニュの小さなレストランのシェフが公開しているレシピです」
 沙耶は自宅でそのレシピに挑戦したときのことを思い出しながら、話を続ける。
「フランス語で書かれてるので、ネットの翻訳ソフトにかけたレシピで作ってみたんですが、いまいち上手にできなくて。おかしいなって思って、自分で仏日辞書と文法書を買って訳してみたんです。そうしたら、翻訳ソフトの訳が間違ってたことに気づいたんです。同じ料理だからだいたい一緒だって思い込みもあったんですが、そのレストランにはシェフ独自の工夫があって――」
 夢中で語っていた沙耶は、匠真が笑みを大きくしたことに気づいた。
「あ、すみません。私、しゃべりすぎでしたよね」
「いや、そうじゃない。本場のレシピをきちんと知りたいからって、辞書に文法書まで買うなんて、沙耶さんは本当に料理が好きなんだなって思ったんだ。まあ、それは普段から君を見ていて、知ってはいたんだけど」
 匠真の言葉に、沙耶は胸がじぃんとした。
「そんなふうに気遣ってくださって……嬉しいです。『興味のないことを一方的にしゃべられてもつまらないだけだ』って言われたことがあって」
 かつて省吾に言われたことを思い出して、沙耶は小声になった。
「俺は沙耶さんの話してくれることなら、なんにでも興味があるよ」
 匠真がまっすぐに沙耶を見た。至近距離で彼の強いまなざしに見つめられて、心臓がうるさいくらいに騒ぐ。
 甘いセリフに免疫がなさ過ぎて、このまま彼に見つめられていたら、恋に落ちてしまいそうだ。