辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする

 医師の仕事について沙耶が知っていることといえば、父の入院中に見たり父から聞いたりした断片的な知識だけだ。それだって、患者の家族という立場からの、ごくごく限定的なこと。
 それ以外には、子どもの頃にお世話になった近所の小児科や整形外科で診察を受けたときの様子や、医療ドラマを見て知ったくらいの知識しかない。
 そのとき、唐突に静枝の声が耳に蘇ってきた。
『次期院長である匠真と結婚する女性は、彼と一緒に病院を支えられる女性でなければならないの。あなたのようなカフェ店員ではなくてね』
 沙耶はソファに座り、クッションを抱えてゴロンと横になった。
 先週の土曜日、匠真は『沙耶を手放すなんて、考えたこともないよ』と言ってくれた。
 けれど、それはいつまでだろうか。彼の母が言うとおり、『結婚するまでは自由に恋愛したいから』今は沙耶と付き合ってくれているだけなのかもしれない。
 ずっと匠真のそばにいるにはどうすればいいだろう。
 これから沙耶にできることとして思いつくのは、医療関係の資格を取ることだろうか。
 起き上がってスマホを手に取り、検索窓に〝医療関係の資格〟と打ち込んだ。表示された結果は、医師から看護師、薬剤師から医療事務まで幅広い。
 匠真のそばにいるためならなんでもできる。そう思う反面、今から資格取得のために大学や専門学校に通うのは非現実的だ。それに好きな仕事を諦めることにもなる。
「あー……」
 沙耶はもどかしい思いでソファにうつ伏せになった。
 どうあがいても、もうすぐ匠真と同じ医師になる研修医の女性に敵いそうにない。
 このまま考え込んでいたらどこまでも気持ちが沈んでしまいそうだ。
 沙耶はむくりと起き上がった。
 こういうときこそしっかり食事をして元気を出さなければ。匠真にも『沙耶さんは悩み事があると、食事をしようとしないから心配だ』と言われている。
 沙耶はキッチンに立って、温めたビーフシチューを皿に盛り、茹でたブロッコリーとニンジンのグラッセを添えた。それからバゲットを切って焼いて、一緒にローテーブルに運ぶ。
「いただきます」
 ソファに座ってスプーンを手に取り、まずはビーフシチューを口に入れた。
 最初に牛肉を焼いてからじっくり煮込んだので、牛肉はとても柔らかく、口の中でスッととろけていく。煮込んだ野菜とソースを、こし器に入れてレードルで潰しながらこしたので、ソースも艶があって美しい。肉と野菜の旨みが豊かに溶け合っていて、我ながら会心の出来だ。
(なんて、自画自賛しちゃった)
 その一方で、匠真はきちんと食事をしないまま仕事をしているのだろうか、と心配になる。