~代官山リアル・ラブストーリー~
新しいゲームを起動した。
画面いっぱいに代官山の夜景が広がる。
『代官山リアル・ラブストーリー』──恋愛シミュレーションの新作だ。
私はワクワクしながら「スタート」を押す。
プロローグは、会社員のヒロインが突然路頭に迷うところから始まった。
夜の街をさまよい、車のライトに照らされて──「危ない!」
助けてくれたのは、スーツ姿の男性。
彼がこのゲームのメイン攻略キャラ。
「怪我はないか? ……そうか。じゃあ、ウチに来い」
拾われたヒロインは、彼の会社に雇われる。
その後、兄弟や友人、秘書たちとの出会いが描かれてプロローグが終わった。
キャラ選択の画面。
私は軽く息をついてつぶやく。
「とりあえず最初だし……メインキャラにしよ」
選んだのは、キャラ1──蓮。
──ヒロインは彼の身の回りの世話係として、社長室で働きはじめる。
コーヒーを淹れたり、書類を並べたり。
あまりにも簡単な仕事ばかりで、彼女はつい考える。
「こんなに楽でいいのかな……」
そのとき、ふと視線を上げると── キャラ1が窓際に立っていた。
その横顔は、まるで彫刻のように整っていて、冷たいのに、どこか儚い。
目元の影が深く、睫毛の長さが不自然なくらい美しい。
「いいんだ。怪我してるんだから」
彼がそう言って、視線を窓の外に向ける。
その声は低く、静かで、耳に残る。
まるで、夜の空気に溶けていくような響きだった。
彼の美しさは、派手さではなく、沈黙の中にある。
見つめるほどに、心が静かになっていく。
「そうは言われても、何かしなくちゃ」
だけど、彼女が少しでも自分の判断で動こうとすると、必ずトラブルが起きる。
女性社員に責められ、落ち込むヒロイン。
そして──
「どうして君は、いつも無理をするんだ」
画面には3つの選択肢。
①謝る ②言い訳する ③黙る
私は迷わず①を選んだ。
──ピロン。
『信頼度 -10』
「え、下がるの!?」
思わず声が出た。
現実の時計を見ると、もう0時。慌ててゲームを終了し、眠りについた。
……翌朝。
会社に着くと、なんだか様子がおかしい。
オフィスの照明が消えていて、ガラスの向こうは真っ暗。
鍵を回そうとしても、びくともしない。
「え……?」
そこへスーツの男たちが近づいてきた。
「何してんだ、あんた? その会社、倒産したぞ」
倒産。
頭の中で、その言葉だけが反響する。
上司に電話をしても繋がらない。
仕方なくアパートに帰ると、玄関前には黄色いテープ。
立ち入り禁止、と書かれている。
「ちょ、ちょっと待ってください。私、ここの住人で──」
「管理会社も倒産してます。中の確認には時間がかかります」
警察の声が遠くに聞こえた。
節約のため、私はネットカフェに泊まり、再就職先を探し始めた。
だけど、疲れが少しずつ溜まっていく。
ご飯も簡単なもので済ませて、いつの間にか昼と夜の区別が曖昧になった。
そしてある日。
ぼんやりした頭のまま、外に出た。
「なんか、ふらふらする……」
視界が歪んで、足が車道に出た瞬間──
クラクションが鳴り響く。
「危ない!」
誰かに腕を掴まれ、体が引き寄せられた。
そのまま強く抱きとめられ、私の頬をかすめる風が止まる。
「大丈夫ですか?!」
顔を上げると、黒いスーツの男がいた。
整った横顔。聞き覚えのある声。
「……?」
彼は眉を寄せ、私を抱き上げる。
「すぐ病院に行きましょう」
「え、でも、たいしたことないし──」
「黙って。今、助けたばかりなんだから」
彼は強引に私を自分の車に押し込んだ。
診察を終えて、白いカーテンの向こうから医者の声がした。
「軽傷ですね。しばらく安静にしていれば大丈夫ですよ」
私はほっと息をついた。
──本当に、死ぬかと思った。
会計を済ませて出ると、待合のソファに男──雪澤 蓮(ユキザワレン)が座っていた。
白シャツの袖をまくり、スマホを片手にしている。
まるで時間ごと切り取られたように、静かな横顔だった。
美しさに一瞬、見惚れそうになるが、それどころではない。
「軽傷だそうです。ありがとうございました」
「それはよかった。自宅まで、お送りします」
当たり前のように言われて、思わず首を振った。
「いえ、あの、家に……実は入れなくて。危険な薬品がバラ撒かれたらしく、警察が調べてるんです。今はネットカフェに」
少し間を置いて、蓮がこちらを見る。
「ネットカフェ?」
「管理会社も倒産してて。荷物を受け取るのにも3日くらいかかるそうです。なので、それまで」
蓮は一瞬だけ考え、低い声で言った。
「……うちで良ければ」
「え」
「誤解しないでくれ。2人きりじゃない。手伝いもいるし、部屋に鍵もついてる」
あまりにも現実味がなくて、思わず笑ってしまいそうになった。
けれど彼の表情は真剣そのものだった。
「ありがたいんですが、そこまでお世話になるわけには……本当に大丈夫です」
「そういうわけにはいかない。──会社ならどうだ? 仮眠室を使ってもらえないか」
「でも……お邪魔でしょう」
「社外秘に触れなければ問題ない。いっそ、あなたがうちの社員になってくれれば互いに気兼ねしないのに」
「え」
蓮は穏やかに微笑む。
「今の会社は失礼ですが、給料はいくらですか? できるだけ譲歩します」
私は、頭が追いつかなかった。
リヴァース社・代官山オフィス。
「今日から我が社の一員となった有山 真麻(アリヤママアサ)くんだ」
蓮の声が会議室に響く。
「この業界は初心者なので、まずは俺の身の回りのことをやってもらう」
拍手がぱらぱらと起きた。
私は小さく頭を下げて言う。
「よろしくお願いします」
社長室。
「私は社長秘書の東雲 理央(シノノメリオ)です。仕事の質問は私にしてください。社長の手は煩わせないように」
「は、はい」
静かで、整った人だった。目の奥が少し冷たく見える。
白いシャツの襟元まできちんと揃えられ、指先の動きまで無駄がない。
目の奥が少し冷たく見えるけれど、それが逆に美しさを際立たせていた。
まるで、ガラス細工のように繊細で、触れたら割れてしまいそうな静かな威圧感。
すると、明るい声が割り込んできた。
「そんな~眉間に皺寄せるのやめなよ~。老けるよ~」
柔らかい茶髪の男性が立っていた。
肌は明るく、笑顔の輪郭がやけに綺麗で、まるで光を纏っているみたいだった。
彼が動くと、空気が少しだけ軽くなる。
その存在感は“美形”というより、“場の空気を整える美しさ”だった。
「僕は朝比奈 光(アサヒナヒカル)ピカルンって呼んで」
「え、それは、ちょっと……」
「気にしなくていい」
蓮が淡々と言う。
「この2人は幼馴染みだから適当でいい。光は朝比奈建築の所属で、ゲームのデザインの打ち合わせでよく来る」
「はあ……そうですか」
すると今度はドアの外から別の声。
「俺は悠真(ユウマ)雪澤 蓮の弟だ。──俺はあんたなんか認めない」
「え?」
声の主は、蓮より少し若く、目元に火花のような鋭さがあった。
顔立ちは兄と似ているのに、感情の起伏がそのまま表情に出るタイプ。
その分、目の輝きが強く、言葉に熱がこもる。
“美しさ”というより、“若さの危うさ”が魅力になっていた。
朝比奈が苦笑する。
「気にしなくていいよ~。ブラコンだから。兄に近づく女は皆、威嚇するんだよ~」
「誰がブラコンだ?!」
「誰かな~」
あまりにテンポのいい掛け合いに、思わず吹き出してしまった。
「フフッ……」
「「「「……笑った」」」」
蓮、東雲、朝比奈、悠真──全員が同時にこちらを見ていた。
それぞれ違う“美しさ”を持っているのに、並ぶと妙に調和している。
まるで、違う色の光がひとつのプリズムに集まったみたいだった。
「え、すいません」
「んーん、笑うとカワイー」
朝比奈が嬉しそうに言う。
「そ、そうですか」
「ねぇ、この中で付き合うなら誰がいい?」
「え」
「いいから。もしもの話。言わないと部屋から出してあげない」
「……私も社会人なので、ここは社長と答えますよ」
「なんだー、大人かー」
「さあ、仕事しますよ」
東雲がきっぱりと言い、空気が締まった。
「有山さんは、この社内マニュアルを読んでいてください」
東雲さんの声は、いつも通り落ち着いていた。
私はマニュアルの厚みを見つめながら、内心でため息をつく。
「あの……」
「はい?」
「これ、読むの3回目なんですが……他にすること、ないんですか?」
自分でもちょっと図々しいかなと思った。
でも本当に、座って読むだけなのは、退屈すぎた。
「そう言われましても、足に怪我してるでしょう。社長から、無理をさせないように言われてますので」
そう言われてしまえば、何も言えない。
「……そうですか」
私は小さくつぶやいて、マニュアルを閉じた。
だけど、ただ座っているのはやっぱり落ち着かない。
少しくらい役に立ちたい。せめて整理くらいならできる。
そう思って、社長室の棚に積まれた書類に手を伸ばした、その瞬間。
「ちょっと、有山さん。勝手に触らないでください!」
振り向くと、桐谷 美波(キリタニミナミ)が立っていた。
ピンヒールを鳴らして近づいてくる姿に、息が詰まる。
「す、すみません、あっ──!」
驚いた拍子に、手のカップが倒れた。
茶色い液体が机の上に広がり、書類に染みていく。
「何やってるの?! 信じられない」
「すみません! でも、散らかっていたので……」
「社長の机に触るなんて、非常識にもほどがあるわ」
社長室の空気が一気に凍りついた。
まるで冷房の温度が数度下がったみたいに。
そこへ、扉が開く音がした。
「どうした?」
雪澤 蓮──社長。
桐谷さんがすぐに声を上げる。
「この新人が大事な書類にコーヒーを!」
「……じっとしてるように指示したはずだが?」
低く静かな声。
私は言葉を探したけれど、喉がひゅっと塞がった。
その瞬間、頭の奥に強烈なフラッシュが走る。
──この光景。知ってる。
前にも、同じようなことがあった。
ゲームの中で。
代官山リアル・ラブストーリーの中で、主人公がキャラ1に怒られるイベント。まさにこのシーンだ。
「有山さん?」
社長の声が、遠くに聞こえる。
雪澤 蓮。
この人、本当に……あのゲームのキャラ1と同じ?
まさか。そんなこと。
でも、ここまで一致しているなんて。
「どうした? しっかりしろ」
「あ、え、その、す──」
ダメだ。謝っちゃダメ。
ゲームでは「謝る」と好感度が下がった。
残りの選択肢は──「役に立ちたかった」か「逃げ出す」。
逃げる? でも、社会人としてそれはない。
だったら……。
「役に立ちたかったんです」
「なに?」
え、間違った? 逃げるが正解だったの?
いや、ゲームと現実は違う。
現実の社長に“逃げる”なんて、ありえない。
「せっかく拾っていただいたので、役に立ちたいと思いました。
差し出がましい真似をして、申し訳ありません」
あ、やっぱり言葉が重い。
もうダメだ。初日でクビかもしれない。
けれど蓮は、意外にも穏やかな声で言った。
「……いや。君の気持ちを省みず、悪かった」
「社長!」
と桐谷さんが抗議の声を上げる。
しかし、蓮は落ち着いたまま言葉を続けた。
「書類の原本はPCに入ってる。もう一度コピーすればいい。有山くんは、悪いがデスクを片付けてくれ」
「……はい」
就業後。
ひとり、仮眠室で荷物をまとめていると、ドアがノックされた。
「そこのベッド、固くて疲れないか?」
「え、社長? いえ、平気です」
「うちの客室なら、もっと柔らかい」
「でも……」
「ついでに食事でもしないか。入社祝いだ」
「……ありがとうございます」
どうしてだろう。
こんなに気を遣ってくれるのに、胸がざわつく。
やっぱり、どこか“ゲームの中”みたいに感じるからだ。
広すぎるエントランスに足を踏み入れた瞬間、現実感が少しずつ失われていった。
まるで、背景が描き込まれたCGのステージに立っているみたい。
「お食事の支度が整うまで、先に入浴をどうぞ」
家政婦さんに案内され、私は浴室に向かった。
湯船は信じられないほど広くて、香りのいい湯気が立ちのぼっている。
ゆっくりと肩まで浸かり、ようやく息をついた。
──コポコポコポ……。
「え?」
排水の蓋のあたりから、変な音がする。
手を伸ばして外すと、水面がブクブク泡立ち始めた。
「ん?」
次の瞬間、勢いよく水が逆流した。
「きゃあああっ!」
滝のように吹き出したお湯が浴室を満たしていく。
慌てて立ち上がったとき、ドアが開いた。
「どうした?!」
蓮が飛び込んできて、目を見開いた。
私はびしょ濡れのままタオルを探して右往左往。
「み、みみ、水が急に──!」
蓮は慌てて後ろを向き、壁のフックからタオルを取った。
そして視線を逸らしたまま、後ろ手に差し出す。
「ギョウシャヨブ」
低く短い声に、なぜか笑いがこみ上げてきた。
この人、本当に不器用だ。
ゲームよりずっと、優しい気がするのに。
あー疲れたー。もう寝よう。
そう言って布団に潜り込んだ瞬間、意識がふっと落ちた。
昨日の水浸し事件と、あの社長の背中が交互に浮かんでくる。……ま、明日考えよう。
何か大事なこと、忘れてる気がするなあ。
翌朝。
頭の片隅で、もやっとした違和感を抱えたまま顔を洗っていると──。
ピンポーン。
「悪いが、手が離せない。対応してくれ」
キッチンの方から蓮の声。
朝って家政婦さんいないのね。
仕方なく玄関に向かい、インターホンを押すと、下の階の住人らしき老紳士が立っていた。
「実はうちの排水が詰まりましてね……」
「ああ、そうでしたか。少々お待ちくださいね」
そうだ、昨日の逆流。あれ、下の階にも被害が出てたんだ。
「社長、下の階の方が……」
「わかった。一緒に行こう。実害を受けたのは君だ」
そう言われ、私も一緒に下へ。
老夫婦の部屋は思った以上に広く、クラシック音楽が静かに流れていた。
「まあまあ、お2人とも仲がよろしいのねぇ」
「え? あ、いえ、ちが──」
「遠慮なさらずに。あら、お若いご夫婦にぴったりなチケットがあるの」
差し出されたのはオペラのペアチケットだった。
──どうやら、完全に夫婦と思われているらしい。
出社すると。
「今日は余計なことしないでください」
東雲さんに釘を刺される。
「そうよ!」桐谷さんまで乗っかってくる。
「はい……」
その時、蓮が静かに言った。
「いや、企画書を作ってくれ」
一同の空気が一瞬で固まる。
「あの、私、庶務課だったんですけど……」
「むしろその方がいい。専門家は知識が偏ってる。君は自主的に何かしたいタイプらしいから、ピッタリだろ」
褒められてるのか、それとも嫌味なのか。
「はあ……何の企画書ですか」
「もちろんゲームだ。内容は一任する。使えない企画なら容赦なく没にする」
……容赦なく。
(わー、プレッシャー)
私が考えた企画はこうだ。
ゲーム企画書:病院ダンジョン
**キャッチコピー**
君はこの病棟から脱出できるか
**ゲーム概要**
ジャンル:ホラーアクションRPG
プラットフォーム:スマホ/PC
プレイ人数:1人
対象層:ホラー好き、脱出ゲームファン
プレイ時間:1ステージ約15分、全10ステージ構成
**コンセプト**
プレイヤーは入院した伯母の見舞いに来たら未明のウイルスで院内パニック!
緊急封鎖された。
幽霊とゾンビが徘徊し、医療器具や薬品を使って戦いながら、病棟の謎を解いて脱出を目指す。
**ゲームシステム・ルール**
- ステージ制の探索型アクション
- 武器:注射器、メス、AEDなど病院ならではのアイテム
- 敵:幽霊(精神攻撃)、ゾンビ(物理攻撃)
- 回復:薬品や休憩室での仮眠
- 謎解き:カルテ、レントゲン、患者の記録などを使って病棟の秘密を解く
**セールスポイント**
- 医療アイテムを武器にするユニークな戦闘
- ホラー×謎解き×脱出の三重構造
- ステージごとに異なる病室のギミックと敵の個性
書き上げて提出すると、東雲さんと社長が揃って無言になった。
「……そんなに変ですか?」
「いや……才能ある」
「え?」
「凄い才能だ」
……社長が褒めた。あの社長が。
「それじゃ、採用ですか?」
「だが今回は使えない」
「え?」
「ターゲット層を広げたいんだ。F2層を取り込みたい。これだと既存のユーザーにしかウケない」
「先に言ってくれれば良かったのに」
「すまない。まったく期待してなかった」
──はい、やっぱりオチがあった。
帰り道、蓮が運転していた。
夜の街を滑るように走る車の中、私は助手席で頬を膨らませていた。
「まだむくれているのか」
「別に」
「君のいた会社は適材適所を誤ったから倒産したんだ。俺は違う」
横顔のまま淡々とそう言う。
「そうですね……」
一拍置いて、笑ってみせた。
「そう願います」
窓の外では、夜景の光がゆらゆらと流れていた。
──まるで、現実とゲームの境界線が、少しずつ溶けていくみたいに。
客室のベッドに腰を下ろし、私は大きく息をついた。
「ふう……何か企画のヒントになるもの、ないかな」
スマホをいじりながら呟く。
けれど、スクロールする親指はすぐに止まってしまった。
って言っても、私がやったことあるゲームなんて──乙女ゲーム、ドラクエ、ぷよぷよ、桃鉄くらい……。
自分で思って、ちょっと笑ってしまう。これで“ゲーム企画書”なんて作れるのかしら。
「F2層って、何してるんだろうな……」
ぼんやり呟いたとき、指先がふと止まった。
──見覚えのあるアイコン。
「代官山リアル・ラブストーリー」
そうだ。途中までやって放置してた。
起動してみる。
……やっぱり。
画面の中の攻略キャラ、どう見ても“蓮たち”に似ている。いや、似てるどころじゃない。
設定も、名前も、雰囲気も、セリフ回しまで──そっくり同じ。
「これ……」
息を呑む。
続きをタップすると、ゲーム内でキャラ1のマンションの風呂場で逆流するイベントが発生。
「えっ?!」
思わず声が出た。
昨日、私が体験したばかりのあの“水浸し事件”。
まさか……まさか。
ゲームを進めると、次の選択肢が現れた。
1:病院ダンジョン
2:代官山リアル・ラブストーリー
3:悪役令嬢無双
うそ……嘘でしょ? 嘘って言ってよ!
私は震える指で“1”を押そうとして、ふと止まった。
“2”をタップする。このゲームのタイトルだ。
すると、画面の中の蓮が満面の笑みを浮かべた。
「これだ。この企画でいこう! よくやった、□□」
……鳥肌が立った。
嘘でしょ?! 今の世界がゲームの中ってこと? それとも連動? 予知? 何なの……怖い、助けて!
大学時代の友達に電話しようとしたけれど、途中でやめた。
こんな話、信じてもらえるわけない。むしろ病院に入院させられるかも。
──じゃあ、誰に相談すれば?
考えた末に、私はチャットAIを開いた。
「『代官山リアル・ラブストーリー』というゲームと現実が同じです。攻略キャラそっくりの人達に囲まれています。怖い」
AIの返信はすぐに来た。
《落ち着いてください。状況を整理しましょう。調べましたが、『代官山リアル・ラブストーリー』というゲームは存在しません。プレイ中のゲームの発行元を教えてください》
アプリ情報を開く。
──発行元:リヴァース。
私は息を呑んだ。
リヴァースって……今、私が働いている会社の名前じゃない。
代表取締役:雪澤 蓮。
「……そんな……」
AIが続ける。
《リバースが出しているゲームはRPGが中心で、女性向けシミュレーションゲームは1つもありません》
手が震えた。
「どうしよう……どうしたらいいの……こ、ここはどこなの……?」
AIの文字が淡々と浮かぶ。
《落ち着いてください。もしゲームと現実が連動しているなら、ゲームを先に進めれば、この先のことがわかるはずです》
……確かに。
「そう、だよね。それは確かに、そう……でも、見るの怖い……でも、ここで震えてても何も変わらない」
私は課金ボタンを押し、徹夜でゲームを進めた。
ゲームの中では、ヒロインが35歳設定の「代官山リアル・ラブストーリー」がヒットしていた。
ヒロインとキャラ1(蓮)の仲は深まり、やがて同居へ。
1度は自宅に戻ったヒロインも、ストーカーや放火事件に巻き込まれ、結局キャラ1の元に戻る。
そして、結婚。
──だが、式の直前、元婚約者の女性が現れる。
「彼、酷い性癖があるの。気をつけて」
そんなこと、あるわけがない。
ヒロインはキャラ1を信じ、結婚する。
……ノーマルエンド。
結婚後、キャラ1は隠していた性癖を露わにし、さらに「子供ができないこと」を理由に一方的に離婚を迫る。
ヒロインが裁判を起こそうとすると、仕事を奪われ圧力をかけられる。
「……え、ノーマルエンドでこれ?」
私は声を失った。
「バッドエンドなら、どうなるの……? 殺されるんじゃ……?」
スマホを持つ手が、もう止まらなかった。
現実とゲームの境界線が、じわじわと崩れていく。
まるで、どちらが“本当”なのか、わからなくなっていくみたいに。
企画書、代官山リアルラブストーリーを出せば蓮の好感度は上がる。逆に悪役令嬢無双を出せば下がる。
バッドエンドは……バッドエンドも見ておくべきかな。今日帰ったら、いや、今日は寝ないと。
休憩時間にバッドエンドを確認しよう。
「はあ……」
「あまり思い詰めなくていい」
「きゃっ」
突然声をかけられて、心臓が跳ねた。
振り返ると、そこにいたのは蓮。
考え事に夢中だった。会社で何をしてるんだ。
「ああ、驚かせてすまない」
「いえ、こちらこそすみません」
「今日よければ……クマが酷い。眠れなかったのか」
「え、あ……」
誰のせいだっての。本当のことは言えないけどさ。
「えっ」
そんなことを心の中で毒づく間もなく、蓮は私を軽々と抱き上げた。
社長室の奥、仮眠スペースに連れていかれる。
「あ、あの……」
「業務命令だ。眠れ」
そう言い残して、彼は静かにドアを閉めた。
あんな素敵な人が、本当にあんなモラハラなの……?
──気づけば、ぐっすり寝ていた。
起きると窓の外はもう夕焼け色だった。
「す、すみません!」
「俺が眠るように命令したんだから、何も問題ない。それより、よく寝たか?」
「それはもう。これからちゃんと8時間働きます」
「そうか。なら外へ出るから準備を。そのまま帰るつもりで」
連れて行かれたのは、まさかのオペラ劇場。
演目は──『椿姫』。
「あの、私……寝て起きて、ご飯食べて、オペラ見てるだけなんですけど、今日」
蓮は笑った。
「俺は、そんな君を見てすごく癒された」
「……そうですか」
夜、蓮のマンション・客室。
私はベッドに腰を下ろし、スマホを手に取った。
さあ、今夜はバッドエンドを見よう。
しかしアプリを開くと、そこに蓮の姿がない。
「えっ?! どういうこと?!」
ゲームを起動すると、初期画面に戻っていた。
プロローグが流れ、最初に登場したのは──キャラ2・東雲。
「キャラ選択……どうしよう。東雲さんルートなら、社長も出てくるよね」
私は迷いながらも、キャラ2である東雲を選んだ。
──ゲームの中。
社員寮で、ヒロインはキャラ2と隣同士で暮らす設定。
ネットスーパーから届いた食材で肉じゃがを作り、テーブルを整えると──
「美味しそうですね」
「ひっ!」
「おや、そんなに驚きました?」
彼はクローゼットを指差した。
「あれ、続き扉なんです。昼間、業者を手配して壁を取り払っておきました。これから仲良くしましょう、隣人同士」
(まじで? まじなの?)
翌朝。
目を開けると、ベッド脇に腰かけたキャラ2が、じっとヒロインを見下ろしていた。
「ひっ」
「あ、起きました? 昨夜は相伴に預かったんで、朝食は私が用意します」
(やばい、やばいって。完全にストーカー化してる)
ゲーム内の会社パート。
新たな企画の選択肢が出た。
1一休令嬢とんちで婚約破棄を撃破
2男子用乙女ゲーム
3うっかり七兵衛、悪役令嬢に転生す
(選択肢が変わってる……ああ、そうか。東雲の好感度を上げるには、この中のどれかを選べばいいのね。
あれ? でも好かれない方がいいのでは? これ以上好感度が上がると、ストーカーがエスカレートするのでは?
彼は知的だから……2が一番ダメそうかな)
「とてもいい企画です」
(えええええ?! 2を選んだら好感度上がった?!)
「広告に経費をかけずとも話題になりますし、既存のユーザーにも刺さりますから赤字にはなりません。初期作としてはいい選択です」
(まじかああああああ……!)
「言ってくれれば良かったのに」
え? いきなり何?
現実世界で出社すると、蓮が腕を組んで言った。
「水くさいよ~」
と、朝比奈。
「イヤだー、東雲さんと付き合ってるくせに♡ ずっと初めて会ったみたいな顔してて♡」
桐谷まで。
「え、えええええ!」
私の声が裏返る。
そこへ、本人登場。
「警察に問い合わせたら『荷物移動していい』ということだったので、運んでおきました。寮に」
「えええええええええ!!」
笑顔で淡々と爆弾を投げてくる東雲。
その隣で悠真が小さくうなずいた。
「兄に悪い虫がつかなくて良かった」
……誰の話? 私のこと? え、兄? 待って、やめて、全員怖い!
──バンッ。
私はトイレの個室に逃げ込んだ。
東雲はヤバい、東雲はヤバい、東雲はヤバい。悠真は婚約者がいるから無理。
……もう、朝比奈しか残ってない!
アプリを開き、慌ててルート変更を押す。
業務中なので、音を立てないように。
──ジャー。
「ふう……」
水の音に紛れて、ため息をついた。
──社長室。
企画書、男子用乙女ゲームにしよう。
それで東雲の好感度が上がっても、もう違うルートだから関係ないし。社長の家からも出たし、朝比奈は別の会社だし。
東雲の言う通り、コスパ考えたらこれが1番安全。
私はキーボードを叩き、企画書のタイトルを打ち込む。
ゲーム企画書:男子用乙女ゲーム
**キャッチコピー**
男だから男心がわかる
**ゲーム概要**
ジャンル:逆転乙女×無双アクションADV
プラットフォーム:スマホ/PC
プレイ人数:1人
対象層:乙女ゲーム好き男子、メタ系恋愛ゲームファン
プレイ時間:1ルート約30分、全5ルート+隠しルートあり
**コンセプト**
プレイヤーは“魅了”という特殊体質を持つハイスペック女子。
彼女に惹かれた攻略対象やモブ男子たちが次々とアプローチしてくるが、 その愛情は時に暴走し、執着、嫉妬、狂気へと変貌する。
プレイヤーは物理・精神スキルを駆使して彼らをなぎ倒し、 真にふさわしい“最強の男”を見極めて選び取る!
**ゲームシステム・ルール**
- ステージ制の無双アクション+選択肢付きADV
- 魅了ゲージ:高まるほど敵が増えるが、スキルも強化
- 攻撃手段:言葉責め(精神攻撃)、ビンタ、ハイヒールキックなど
- 攻略対象:幼なじみの生徒会長、腹黒アイドル、武闘派教師など個性派揃い
- サービスシーン:着替えやスキンシップイベントあり(演出はギャグ寄り)
**セールスポイント**
- 乙女ゲームの“受け身ヒロイン”像をぶち壊す、攻めの主人公
- 男性プレイヤー視点でも楽しめる恋愛×バトルの融合
- 攻略対象だけでなく、モブ男子にも個別エピソードあり
- 選択肢次第で“真の愛”か“全員撃退”のマルチエンディング
印刷した瞬間、蓮が入ってきた。
「次の企画会議に出す。悪くない」
すぐ後ろから東雲の声。
「いえ、幅広い支持層を考えれば、これ以上はないかと。話題性も充分です。開発費も広告費も、さしてかからない」
「話題性は確かに。しかし主力にはならない。
悪いが、もう2~3考えてくれないか。今すぐ商品化しなくても、いずれ使うかもしれない」
「わかりました」
ああ、またフラグ立った気がする……。
終業後。
ロビーを出たところで肩をポンと叩かれた。
「お疲れ~迎えに来たよ」
朝比奈さんが笑顔で私の荷物を取ってくれた。
「??」
「なになに~? 今朝『東雲っちと付き合ってる』って、皆でからかったから怒ってるの?」
「え、どういう」
からかう? ルート変更したから、そういう設定になったの?
「わかってるよ。君の本命は僕だろ、マイハニー。寮まで送って行くからね」
バチンとウィンクした。
並木道を走る車内。
「イタリアンと和食どっち? まさか中華かフレンチ? どれでもいいけど」
「あの……」
「なるほど、多国籍料理ね。OK」
朝比奈はノールックでスマホを操作しながら、レストラン予約。
さすが遊びなれている。
レストラン。
朝比奈は大きなロブスターを、あっという間に取り分けながら言った。
給仕は邪魔らしい。
「何が聞きたい?」
「え?」
「ずっと奥歯に何か挟まってるような顔してるから」
「……生まれつきだったら、どうするんです?」
「僕は女の子の“そのへん”間違わないんだよ」
「朝比奈さんは、ゲームの開発には関わってないんですよね?」
「ピカルン」
「……」
「ないよ。デザイナーだもん。でも──蓮に聞きにくいことを、僕が代わりに聞くことはできるよ」
私は口を開きかけて、閉じた。
待って。この流れ……多分ゲーム上の選択肢だ。だとしたら、ゲームを先にやって答え合わせした方が安全では? 社長の性癖とか、東雲のストーカーみたいに、この人も“何か”あるかもしれない。
「そうだね。秘密を打ち明けるには、僕たちはまだ関係が浅いね」
朝比奈が微笑む。
「明日から君の部屋で暮らすよ。よろしく」
「っ?!」
真麻の寮の部屋。
「待って、帰らないで」
「君みたいな、おしとやかな女性に積極的に来られるのは悪くないね」
クローゼットを開ける。
……通路になってない。ホッとする。
「どうした? 急に」
「い、いえ」
「まさか、ストーカーにでも遭ってる?」
「これから遭う予定でした」
「なんて?」
「忘れてください。
今日は、どうもごちそうさまでした。送ってくださって、ありがとう」
「お茶も入れてくれないわけ?」
「夜に一人暮らしの女性の家にいるのは、どうかと思います」
「はいはい。ちょっと期待したのに」
笑顔のまま出ていく朝比奈の背中を見送りながら、私は安堵の息を吐いた。
寮のソファーに腰掛け、スマホを手に取る。
今夜は、朝比奈(キャラ3)ルートを進めるのだ。
やはり、先ほどのレストランの会話は選択肢だった。
1「頼ってもいいでしょうか」
2「まだ出会ったばかりなので」
3「悩みなんてありません」
迷った末、私は2を選択する。
正解だった。
彼は自分を軽く見せるけれど、軽い女は嫌いなのだ。
1を選んでいたら好感度は下がっていた。……さっき何も言わなくて良かった。
ゲームは、その後も淡々と進む。
普通の乙女ゲーム……だと思っていた。
しかし、突然。
「なんでノーマルエンド?!」
画面に浮かぶ文字はノーマル。
「ほとんど正解したはず……」
そして気づいた。
彼はラスボスだ。
攻略が難しく、1つでも不正解だとハッピーエンドにならない。
鳥肌が立った。
──1番簡単そうに見えたのに。
ゲーム内ノーマルエンドでは、幸せな結婚式のあと、新婚旅行へ向かう。
だが、なぜか悠真の婚約者も同行していた。
「どういうこと?」
「……あー、僕たち幼馴染みだから」
えええ……幼馴染みだからって、新婚旅行についてくる?
「気に入らないなら帰れば?」
「っ?!」
あっさり、成田離婚で幕を閉じた。
──現実。
社長室に入ると、悠真がデスクに座っていた。
「おはようございま──」
「おはよう」
その視線の先に、蓮は不在。
「社長は?」
「兄は本社に戻った」
「本社?」
「買収したんだ、リヴァースを。雪澤コーポレーションが。今日からこの会社の社長は俺だ」
「っ?!」
悠真がニヤリと笑う。
「君は、そうだな……俺付きの……ペットということにしよう」
この兄弟は、どちらも……。
息を整え、私は軽く頭を下げた。
「少し失礼します」
トイレの個室。
スマホを開くと、トップ画面には悠真=キャラ4しか残っていなかった。
自動的に、悠真ルートに入っている。
「はあ……」
ゲームを進めるとキャラ4も、現実同様リヴァースの社長になっていた。
休日は移動した荷物を整理するのに、時間を使ってしまった……。ゲームを続ければ良かった。そうすれば、悠真について先手を打てたろう。
だが、就業中に最後までプレイすることはできない。
ため息をつき、社長室に戻る。
「おい」
「はい?」
「肩を揉め」
「……はい」
デスクに近寄って揉む。
悠真は、にらむような視線を向ける。
「何が不満だ? お前も兄がいいのか」
「別に……まだ24歳なのに肩が凝るのかと」
「こ、子供だと思っているのか?!」
「思われたくて声を荒げているのですか」
「……」
言葉が途切れた。
夜、ベッドの上。
再びスマホを手に取る。
悠真=キャラ4ルートを攻略する。
……これ、どうなるんだろう?
私は、小さな声でつぶやいた。
不安と共にゲームを進める。
しかし──
「ん……?」
現実世界、社長室。
「おい」
「……」
「おい、聴こえないのか!」
「……」
「な、なんだ急に?」
私は無視してPCに向かう。
「どうしました? 社長がお呼びです」
東雲が控えめに声をかける。
「私は“おい”という名前ではありません」
悠真が驚きの声を上げる。
「なっ……」
私は知らん顔で画面に集中した。
1時間後、会議室。
「これより企画会議を始めます。今回は有力な企画が多数あり、お手元の資料を──」
桐谷が説明を始め、一同は頷きながら資料に目を通す。
いくつかの企画が、真麻の手からも提出されていた。
色々な意見が飛び交うが、なかなかまとまらない。
「最後に、資料にする時間がなかったので口頭で説明したい企画があります」
桐谷が告げると、悠真が静かに頷く。
「タイトルは代官山リアル・ラブストーリーです。ヒロイン35歳と、これまでの乙女ゲームとは一線を画し──」
オフィス、会議終了後。
「桐谷さん! 本当にこれやるんですか?」
私は慌てて声を上げる。
「え、何? 自分の企画が通らなかった腹いせに潰しに来た?」
「ち、違うけど……」
「じゃあ何?」
「このゲームは、ちょっとマズイんです」
「ははは、言うことに事欠いてマズイ? 具体的に何がマズイわけ?」
桐谷は笑い飛ばす。
スマホを取り出しアプリを見せようとするが、代官山リアル・ラブストーリーはすでに消えていた。
「え?」
「何なの? 忙しいから邪魔しないで」
桐谷は軽く肩をすくめるだけだった。
会社近くの公園。
長く息を吐く。
「企画が通らなかったくらいで、そこまで落ち込む必要はない」
振り返ると、悠真がベンチの隣に腰掛け、サンドイッチと飲み物を差し出してくる。
「……」
「社長を無視する新入社員は君くらいだ」
「……ありがとうございます。サンドイッチ」
「ああ」
その手は、重くも軽くもない絶妙な温かさだった。
翌々日、社長室。
「会談のついでに昼食もとってくるから」
「そう……ですか」
「なんだ?」
「あ、いえ、何も」
「?」
昼、テーブルに弁当を広げる。
「2つも食べるのか。大食いだな」
「わっ。驚いた、お帰りなさい。会談は?」
「昼休憩だ」
悠真は向かいのソファーに腰掛けると、大きい方の弁当を無言で食べ始め──フリーズした。
「食中毒になるには、早いのでは?」
「俺好みの味だ」
「それは良かった。サンドイッチの御礼です」
小さな達成感が胸を満たした。
夜。
「もう就業時間は過ぎた。俺のことは気にしないで帰っていいぞ」
「家に帰っても、どうせ1人ですから」
「……なら、この棚の資料を整理してくれるか」
「はい」
悠真が予約したフレンチレストラン。
私達はテーブル越しに向き合う。
「社長は、お兄様に幸せになって欲しいのですか?」
ホタテのムニエルを切り分けながら、訊いてみた。
「やぶから棒になんだ」
「随分とひねくれていらっしゃるようなので」
「君の物言いも可愛い、とは言えないが。兄の肩を持つのか」
「それは拾っていただいた恩がありますからね。でも……」
「でも?」
「1週間ほどしか一緒にいませんでしたから」
自嘲気味な私に彼は、少し眉をひそめた。
社長室。
テーブルの上には、私が作ったお弁当が2つ並んでいた。
「これ、どっちが俺のだ?」
悠真が椅子から飛び出して、勢いよく蓋を開けようとする。
私はすかさず、その手をぴしゃりと押さえた。
「お手」
「は?」
「お手よ。手を乗せて、ここに」
「……」
悠真は目を瞬かせたまま固まっている。
私は腕を組んで首を傾げた。
「しないなら、あげない」
そう言って弁当を片付けようとしたら、彼が慌てて立ち上がった。
「待て、どこへ行く」
「どこだっていいでしょ」
「なぬ……」
「はい、お手。できないの?」
「ぐ……」
歯を食いしばった彼を見て、私は小さくため息をついた。
「もういいわ」
「待て、する!」
差し出した私の手の上に、彼の手がそっと乗る。
その瞬間、部屋の隅で東雲が吹き出した。
「うう……」
「イイコね。よくできました」
私は軽く頭を撫でた。
悠真の耳が真っ赤に染まる。
「まだ撫でてほしい? ん?」
「……」
彼は黙って視線を逸らした。
1週間後。
社長室の奥にある仮眠スペース。
私はベッドに腰掛け、膝の上に悠真の頭を乗せていた。
髪をゆっくりと撫でる。指先に、穏やかな呼吸の振動が伝わる。
「落ち着く。人生で1番今が幸せだ」
「嬉しい。私も」
「本当に?」
彼がゆっくりと起き上がる。私は小さく頷いた。
「な、なら、唇に触れても……?」
その声に、私は小さく首を振る。
「な、な、なぜ」
「あなた、婚約者がいるじゃないの」
「あ、あれは……政略で、気持ちはない」
それでも、私はもう1度首を振り、無言のまま部屋を出た。
その夜、寮の部屋。
「何なんだよ、1週間も休暇とるなんて! どこに行くつもりだ?!」
「きゃっ」
唐突に悠真が上がり込んできて、壁際に追い詰められる。
──ドン。
壁際に追い込まれ、息が詰まるほど顔が近い。
「俺が嫌になったから逃げるのか」
雨に濡れた子犬みたいな目で見つめられた。
足し引き、押し引き。
ここは押しだ。
何故だろうか。ゲームで先に攻略したからだけではない、恋愛の呼吸が手に取るようにわかる。
私は腕を彼の首に回した。
そして、顔を近づける。
戸惑いながらも、悠真がキスをしてきた。
──翌朝。
ベッドの上、裸のまま寄り添っている。
悠真が後ろから私を抱きしめた。
「1日中、君とこうしていたい」
彼の腕が、強く私を引き寄せる。
「もう起きないと、仕事に遅れるわ」
「一日くらい休んだって平気さ」
「あなた、社長でしょう?」
「こういう時は兄に代打を頼もう。もともと兄の会社なんだし」
彼はスマホをいじりながら、私の髪に顔をうずめた。
私は彼の胸の上に頭をのせて、長く息を吐く。
髪を撫でると、悠真は満足そうに目を細め、猫みたいに頬をすり寄せてきた。
そうしているうちに、ピンポーン。
続いて、ドンドンドンドン!
インターフォンに出ると、蓮の声だった。
ドアを開けるやいなや、蓮が部屋に飛び込み悠真を殴り飛ばした。
「何やってるんだ、お前はっ?!」
「に、兄さん……」
「俺から会社を奪った挙げ句に、これか?!」
「奪う? 悠真さんがやったの?」
私が思わず問い返す。
「違う。返しただけだ。雪澤コーポレーションの後継の座と婚約者を」
「要らないから自立したんだろ!」
「俺に押し付けるな! 俺だって要らない!」
「っ!」
私は深呼吸をして、2人の間に割って入った。
「とりあえず朝食を作ります。悠真さんは服を着て。蓮さんは待っててください」
少し後。
「うまい」
蓮がそう言って、静かに箸を置いた。
中サイズの親子丼とお吸い物だ。
私は微笑んで頷く。
「真麻、俺以外の男に微笑むな」
悠真の声が低くなる。
「お前……この短期間で何があった?」
蓮がため息をつく。
「理想を手に入れただけだ」
悠真はそう言って、椀に口つけた。
1ヶ月後。
「どうしてだ?! どうして?! 俺も連れていけ!」
悠真が私の腰にしがみつく。
「ダメって言ってるの」
「行き先だけでも教えろ」
「放っておいて」
「イヤだ! 俺も連れて行かないなら、外に出さない!」
悠真の腕が強く絡みつく。身動きできないほどだ。
私は迷わず、スマホを取り出し隣の部屋に暮らす東雲に連絡した。
数分後、東雲が駆けつける。
「主君に逆らうか!」
「女にのめり込む主君を諌めるのが近臣です」
悠真を引き離す東雲の力強さに、思わず安堵した。
「助かりました」
「いいえ。お気をつけて、いってらっしゃい」
「はい、あとよろしくお願いします」
私は旅行かばんを手に取り、静かに寮を出た。
──青森。
肌寒い街に到着。
早速、予約していたイタコを訪ねる。
彼女は深くうーんと唸り、項垂れるように頭を下げた。
そしてふっと顔を上げる。
「真麻」
「伯母さん! 出てきてくれた!」
「大変なことになってるわね」
「そうなの。訳がわからなくて……どうしてこんなことに……」
「今いる4人の男達は前世の因縁で繋がってるの」
「因縁……?」
「逆恨みされてるのよ」
「え? 誰に?」
「男の愛人だった女に」
「そんな……」
「真麻は悪くない。けど、相当強い怨念と執着が絡み合ってる」
その言葉に、背筋が寒くなる。
「人の恨みや執着の力で、未来のゲームをプレイして、それが現実と連動したり……そのゲームが消えたかと思えば、また新たに現実の企画としてスタートするなんて、そんな不思議なこと起きる?」
「マーサを恨んで死んだ女が、強い魔女だったのよ」
言葉の意味が頭に沈み込む。
「どうすれば……」
「ごめんなさい。それは霊界でなく、魔界の担当だから魔術を調べてみて」
「え、そんな……」
「時間切れ。またね、私の可愛い姪っ子」
「伯母さん!」
私は深呼吸し、状況を整理する。
まず4人の男──雪澤兄弟、朝比奈、東雲──は前世の因縁で繋がっている。
そのうちの誰かの愛人だった女が、私を逆恨みして今回の現象を起こした。しかも魔女。
そして魔術が絡んで、ゲームの強制力まで生じているらしい。
女も転生しているなら、桐谷さんか悠真の婚約者、あるいは彼らの母親か……。
何が目的なのだろう。私の不幸な結婚生活?
もし今すぐ会社を辞めたら、ゲームの強制力でまた戻されるのだろうか……。
まず現実の安全を確保するため、寮を出るよう。
だが前の家は火事で取り壊され、マンションを探してもどこも審査落ち。
もしくは、わずかなタイミングの差で先約が入り借りられない。
やっぱり、ゲームの強制力が働いている。
ふと思い立ち、大きな図書館で魔術を調べようかと考える。
しかし先に、お祓いを受けた方が安全だと気づいた。
イタコに頼って答えに近付いたのだから、霊的な行動にも意味があるはずだ。
私は東京大神宮へ向かい、お祓いを受けた。
祈祷の最中、急に外が荒れだし豪雨が降り始める。
驚きながら帰ろうとしたその時、社内メールが届いた。
「代官山リアルラブストーリー、シナリオ完成」
画面を見て、私はそのまま会社へ向かう決意を固めた。
会社の社長室。
私はPCの前に座り、完成したシナリオを開いた。
「代官山リアルラブストーリー」
まるで、誰かが私の人生をなぞるように書いたかのような脚本だった。
いや、こちらが先に書かれて私がなぞったんだろうか。
横で、悠真が何か言っている。
「俺の話、聞いてるのか? 昨日だって──」
無視して画面をスクロールする。彼の声は、遠くの雑音のようにしか聞こえなかった。
ページをめくるようにタブを切り替え、最後の行を読み終える。
「……ふう」
ゆっくりと息を吐き、PCのタブを閉じた。
「悠真」
「やっと、こっち見た。俺を構えよ。寂しかったんだぞ」
「私を愛してる?」
「っ?!」
彼が息を呑む。
「愛してるなら、何をすればいいと思う?」
「そんなの……こうして──」
悠真が手を伸ばし、私を抱きしめようとした。
私は首を振った。
「違う。目先のことじゃない」
彼は、その意味を理解できないまま、立ち尽くしていた。
──半年後。
白いチャペルの中央。
祝福の鐘が鳴り響く中、司祭の声が響いた。
「汝は健やかなる時も病める時も、新郎と人生を共に歩むことを誓いますか」
私は真っすぐに前を見て答えた。
「誓いません」
空気が凍る。
ざわ……と、会場がざわついた。
「一体、何だって言うんだ」
悠真が訝しげに言葉を絞り出す。
「私より、ふさわしい人がいます」
ゆっくりと振り返り、田中 真千(タナカマチ)──悠真の元婚約者にして4人の幼馴染み──を指差した。
会場が静まり返る。
悠真の顔から血の気が引く。
「……バカな」
私はポケットのリモコンを押した。
次の瞬間、スピーカーから録音が流れ始めた。
『俺たち、ずっと一緒だよな』
『結婚したって関係ないよ~』
『むしろ結婚した方がカモフラージュになりますよ』
『そうよね。まさか私たちがずっとこういう関係だなんて、誰も思ってないだろうし』
『よかった。みんなと離れないでいれて』
音声が終わると、重たい沈黙が落ちた。
「田中さん、悠真。
この度は、おめでとうございます。私はこれで失礼します」
静かに礼をして歩き出そうとした瞬間、悠真が叫ぶ。
「ま、待ってくれ! 違う! 違うんだ! 真千のことは単なる、昔からの習慣で……愛してるわけじゃない! その、連携というか……仲間意識っていうか!」
「黙れ!」
悠真の父である雪澤会長が、低い声で怒鳴った。
「醜態を晒すな!
真麻さん、着替えが終わったら話し合う時間を。
式はこれで終わりだ。参列していただいた皆様には、申し訳ない」
「そ、そんな父さん! 待って!」
会場の扉が閉じる音が、終わりを告げた。
チャペルの控室。
そこには、雪澤一家、田中一家、朝比奈、東雲、そして私の弁護士が揃っていた。
「弁護士まで用意してるとはね~」
朝比奈が口笛を吹く。
「当然の権利では?」
と、東雲が冷静に返した。
「我々の落ち度です」
朝比奈は黙り込んだ。
雪澤会長が腕を組む。
「婚約は解消。慰謝料は……相場の2倍でいいだろうか」
「父さん! 俺はまだ──」
「黙れ!」
私は1歩前に出て言った。
「慰謝料は相場で構いません。それから、本日中に悠真さんと田中さんが入籍してください」
「「「なっ?!」」」
「それと、もう1つ。私が企画したゲーム『離婚シミュレーション』のキャラクターモデルを、田中さん達にしていただきます。
以後5年間、勝手に改変しない契約を。そうすれば録音データは、すべて予備も含めて消去します」
雪澤会長の声が、低く部屋を震わせた。
「……婚姻届を持ってきてくれ」
誰もが息を呑む中、田中真千が青ざめた顔で立ち上がった。
「まっ、イヤ! イヤよ!」
「こうなったら従うしかない」
父親の静かな1言に、周囲は“仕方ない”という表情を浮かべる。
真千は、泣き叫ぶように言った。
「私が愛してるのは、理央なの! 結婚するなら理央がいい!」
その瞬間、東雲が淡々と口を開いた。
「業務命令とあれば、引き取りますが」
「は? 私のこと、好きじゃないの?」
「なぜ?」
「だって……前世で、私たち結ばれたのに」
部屋中が、静まり返った。
誰も、言葉の意味を理解できない。
「私はプリュダンス=フローラ。あなたは私の愛人、グランヴィル医師」
真千は涙を浮かべ、恍惚とした声で続ける。
「あなたはヴィオレッタの主治医だった。肺を患った彼女の見舞いに行った時、あなたに恋をしたの。
それなのに、あなたはいつも“ヴィオレッタ、ヴィオレッタ”って。
ヴィオレッタが死ねば忘れると思ったのに……。
私たちの前世は、物語『椿姫』の登場人物。
その女(真麻)がヴィオレッタ、蓮がドゥフォール男爵、悠真がアルフレード・ジェルモン、光がガストン子爵よ」
静寂。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
「……気が触れていたようだ」
雪澤会長が重々しく言った。
男性陣が一斉に頷く。
真千の両親は蒼白になり、私の方へ頭を下げた。
「責任もって入院させる。あなたも……申し訳なかった。償いは、必ずする」
「そうしてくれ」
会長の声が、まるで判決のように落ちた。
私は深く息を吐いた。
嵐は過ぎた。けれど、終わりではない。
──数日後。代官山リヴァース・社長室。
「おはようございま──」
「おはよう」
椅子を回してこちらを向いたのは、蓮だった。
「今日から俺が社長に復帰した」
「……私のせいですか」
「っ、違う。おかげだ」
「そうですか」
彼は静かに笑った。
「君は見違えるほど強くなった。初めて会った時は、保護しないと死んでしまうかと思ったのに」
「社長好みの、“支配できる弱い女性”は、またすぐに見つかりますよ」
「ふう……爪を隠してただけか。企画書を見せてみろ」
それが、私と彼の“再会の会話”だった。
どちらも笑っていたのに、心の奥はどこか遠かった。
──就業後。
人気のない廊下で。
「東雲さん」
「なんでしょう」
「東雲さんにしかできないミッションがあるのですが」
「命の危険は?」
「場合によっては、あります」
「報酬は?」
「……何が欲しいですか」
──隔離病棟・夜。真千視点。
蛍光灯がちらつく部屋の中で、私は拘束具に繋がれていた。
「離して! 離してよ! 私はプリュダンス=フローラよ!」
誰もいない空間に、声が反響する。
そのとき、空気がふっと変わった。
誰もいないはずの病棟に、黒いコートの男が現れる。
東雲だった。
「プリュダンス」
その声に、私の細胞が騒いだ。
「グランヴィル! 来てくれたの!」
「ああ、辛い思いをさせて悪かったね。……ここから出よう」
枷が外れる音がした。
私は導かれるように立ち上がり、足元の影に飲まれていった。
──幻影の劇場。
東雲が私を連れてきたのは、劇場だった。
舞台では、オペラ《椿姫》の幕が上がる。
観客席は2人だけ。
「グランヴィル! またヴィオレッタのところへ行くの?」
「フローラ、彼女はもう命が消えかけてる。できることは、全てしなければ」
「毎日、行ったって変わらないわ!」
「それでも本当に友人なのか! 見損なった!」
舞台の上で、俳優たちが演じているはずなのに──
私には、その役者が遠い日のグランヴィルにしか見えなかった。
「待って……ごめんなさい。行かないで、グランヴィル」
「ああ、少し言いすぎたよ。すまない、フローラ」
2人が抱き合う。
「愛してるよ、フローラ」
観客席で、私は涙を流した。
それが舞台の演技なのか、夢の中なのか、もう何もわからなかった。
東雲はそっと私の髪に触れ、静かに目を閉じた。
──昼の歩道、真麻視点。
伸びをして、私は歩き出した。
長かった日々の幕が、ようやく降りた気がした。
「会社辞めて、どこ行くって?」
振り返ると、朝比奈が腕を組んで立っていた。
相変わらず、何でも見透かすような目をしている。
「皆さんから頂いた慰謝料で起業します。ゲーム会社を」
「何のゲーム、作るつもり?」
「イタコの降霊術ゲームです」
「冗談だろ?」
「冗談です」
そう言うと、朝比奈がふっと吹き出した。
「ははっ。うちの会社に来なよ。君は優秀だから、他に獲られたくない」
「もう、過去にとらわれないで生きていきたいんです」
「……そう。残念だ」
それだけ言って、朝比奈は手を振り、去っていった。
私は青空を仰いだ。春の風が頬を撫でる。
ようやく、本当に自由になれた気がした。
──5年後。
青森の港町。
海の匂いと、潮騒の音が窓から流れ込む。
「君との契約が切れた」
蓮がそう告げたのは、例の“離婚シュミレーション”の契約期限だった。
契約内容は5年間キャラクターのモデルを4人と真千にするという、ただそれだけだった。
「ええ。なら、好きにしてくださればいいのに」
「君はどうしたい? 君の気持ちを尊重したいんだ」
“離婚シュミレーション”は、真千の呪いを封じるために作ったゲームだった。
結婚式までの半年間、何度もイタコを訪ね、黒魔術も身につけた。
これは復讐のための物語。
けれど真千は退院後、修道院に入り、もう表舞台には戻ってこなかった。
「気持ちは嬉しいです。でも……もう気が済みました。だから、本当に好きにしていいんです」
「吹っ切れたんだな」
「とっくに」
蓮は少し目を細めた。
あの頃の彼とは違う、柔らかい笑みだった。
「なら、また東京で働かないか。寒いだろ、青森は」
「私、ゲーム会社を経営しながらマグロも獲ってるんです」
「冗談だろう?」
「はい、冗談です」
「フハッ、そうか。それなら仕方ない。弟は元気か?」
「ええ、そろそろ帰ってく──」
「ただいま! あ、兄さんまた来たの? 邪魔くさいな!」
勢いよくドアを開けた悠真が、ずかずかと入ってくる。
その後ろから、朝比奈と東雲も現れた。
「本当だ~。毎月、来てるよね~」
「雪澤コーポレーションの跡継ぎとして、どうかと思いますが」
「うるさい。お前たちこそ勝手に引っ越して何してるんだ」
「べっつに~」
そのとき、悠真がふと真顔で言った。
「俺、まだ婚約解消に納得してないから」
「未だに、そんなこと言って」
蓮が苦笑する。
しかし次の瞬間、東雲が静かに告げた。
「申し訳ありませんが、真麻は私と毎晩床を共にしてますので事実婚夫婦です」
「「「えええええっ?!」」」
騒がしい声が港町に響いた。
その中で、私はただ静かに笑った。
潮風の向こうに、春の海がきらめいていた。
□完結□



