怜央はお金持ちの家庭で育った。

両親はどちらも忙しく、家族の時間を大切にするよりも、仕事や社交の方が優先されていた。

彼が子供の頃から目にしていたのは、豪華なパーティー、優雅な夕食会、そして金銭的な成功に満ちた人々だった。

それが「大人の世界」だと教え込まれたような気がしていた。

母親はいつもこう言っていた。

「恋愛は自由よ。楽しむものだけど、結婚は違う。結婚には家同士のつながり、社会的な責任が伴うの。だからこそ、慎重に選びなさい」

父親もまた、こう口にしていた。

「結婚は人生のビジネスの一部だ。感情で決めるものじゃない」

父は常に理論的で、結婚を含めた人間関係もすべて計画的に進めるべきだと怜央に言っていた。

けれど――怜央には、人生でたった一度だけ本気で好きになった人がいる。

大学3年の時だった。

名前は藤堂 里奈。代々続く伝統芸能の家系に生まれた彼女は、舞台の上では気品に溢れ、まるで別世界の人のようだった。

けれど怜央の前では驚くほど自由で、茶目っ気があり、繊細で、まっすぐな女性だった。

そんな彼女に、怜央は強く惹かれた。

ただの恋愛感情ではなかった。

「この人となら結婚したい」と、初めて心から思った相手だった。

付き合い始めて1年が経った頃、怜央は思い切って尋ねた。

「もし、将来のことを考えたら……俺たちってどうなると思う?」

本当は「結婚を考えてる」と伝えたかった。
でもそれを言えば、彼女を縛ってしまう気がして、言葉を濁した。
里奈は少しだけ間を置いてから言った。

「うーん……そうね」

「……そうね?」と怜央が促す。

「私は、結婚ってたぶんしないと思う」

思わず息が止まりそうになった。

「……え?」と、ようやく声を出す怜央。

彼女はさらっと、でも確信を持った口調で続ける。

「恋愛と結婚は別だから。本気で好きになった人だとしても、結婚できない」
その言葉が思った以上に心に刺さった。

「……どういうこと?」と怜央が問いかけると、彼女は逆に質問で返してきた。

「怜央は、結婚を考えてる?」

「……まあ、いつかは、な」

「ふふ、意外」

「意外って……」と戸惑う怜央に、彼女は肩をすくめる。

「だって、怜央のお家だって結婚相手には厳しいでしょ? だから、私と同じように思ってると思ってた」

怜央は、すぐに反論できなかった。
たしかに両親から、結婚相手については厳しく言われていた。
深入りしないよう、自分を制御してきたのも事実だった。

「……それでも、俺は、里奈とはずっと一緒にいたいって思ってる」

そう言った瞬間、彼女の瞳がかすかに揺れた。
でも次に口を開いた時には、いつもの微笑みに戻っていた。

「……それは、嬉しいよ」

「じゃあさ……」と言いかけた怜央を、やわらかい声がさえぎる。

「でも、ごめんね。私は、怜央が思ってるような相手にはなれない」

「……なんで?」

「家のこともあるし……たぶん、結婚するのは親が決めた人か、家業に関係のある人になると思う」

「そんなの、関係ないだろ?」

「関係、あるよ」

「俺が、里奈の家に認められればいいんだろ?」

思わず、そう言っていた。
本気で、認めてもらうためなら何でもする覚悟だった。
けれど、彼女は首を横に振る。

「そういうことじゃないの」

「……俺は認められたくて言ってるんじゃなくて……」

「私はね、結婚は“家と家”のものだと思ってる。でも、恋愛はそうじゃないの」

「……」

「恋愛は、私が“楽しい”って思える人とするものなの」

「じゃあ、俺といるのは楽しくないのかよ」

「楽しいよ」

「……」

「だから、こうして付き合ってるの。でも、結婚は“楽しい”だけじゃできない」

「……」

「ごめんね、怜央」

その日、怜央は初めて「本気で人を好きになることの無力さ」を知った。
いくら本気でも、相手が同じ気持ちでなければ届かない。
しかも、嫌いになったわけではなく、「結婚は別」だと静かに線を引かれただけ。

ただそれだけなのに、どうしようもなく虚しかった。

――数週間後。

彼女の口から出た言葉は、思いがけない内容だった。

「ちょっと、海外で舞台の勉強してくる」

「……いつ帰ってくる?」

「わからない。でも、しばらくは戻らないと思う」

「……そっか」

「怜央は、もっと気楽に恋愛したほうがいいよ」

「……は?」

「結婚とか考えずに、純粋に楽しめばいいのに」

怜央は乾いた笑いを漏らす。

「俺に、それを言う?」

「うん。だって、怜央はいつか気づくよ。恋愛って、本気になりすぎると苦しくなるものだって」

「……」

「だから、もっと気楽にね?」

それが、彼女との最後の会話になった。

***

それ以来、怜央は「本気の恋愛」に蓋をした。
どんなに魅力的な相手が現れても、決して本気にならない。
結婚なんて、もう考えない。
恋愛は、“楽しい”ものにする。
それが彼の中のルールになった。
だからこそ、「期間限定の恋愛サブスク」は怜央にとって理想的だった。
最初から「終わり」が決まっていれば、あの時みたいに傷つかずに済むから――。



***

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