「当然。嫌がらせだもん」
「ほう……我が声を聞いても正気を失わぬとは……なかなか豪胆な方のようだ」
体格や長い黒髪、話し方までもが元海賊のシャードを思い起こさせたが、その身から放たれる空気はシャードとはまるで違った。
シャードが空の闇ならば、目の前の男は底の無い沼の淵を連想させる。
声だけは身震いする程の美声ではあったが、気の抜けない空間においてそんなものは何の安らぎにもなりはしない。
「聞き慣れてんの。もっとキレーな声」
鼻で笑うと唯一見える男の口元が笑みに歪む。
「そう……そうでしょうとも。あのお方には何者も敵わない。まこと口惜しいことだ。無力でありながら分不相応な美しさを手にする、身の程も弁えぬ愚か者なぞに……」
エナは片目だけを少し細めた。
敬称で呼んでみたり愚か者だと言ってみたり、目の前の男の言動は掴みどころがない。
だが、話の中心になっている人物が誰なのか、エナには理解出来た。
「まさか……狙いはあいつ?」
悪夢によって神経を摩耗させている、紅を纏う青年ジストの姿を思い描く。
目の前の男は悠然とした手振り身振りでエナの言葉を否定した。
「それこそまさかというもの……私はただ、取り戻したいだけでございます」
敬意の欠片も抱いていないくせに男は恭しく礼をしてみせた。
「取り戻す?」
ジストに何かを奪われたのだろうか。
あの男なら有り得る話だ。

