男を止めようと妻が声の限り叫ぶ。
けれどその声は届かない。
血走った目に映るのは妻と娘の愛情を奪っていった少年の姿のみ。
「お前さえ拾わなければ…! お前さえ……!」
ぎらぎらと憎しみを宿す瞳に見下ろされながらも不思議と怖いとは思わなかった。
殴られるのは怖いというのに、包丁を向けられても恐怖は無い。
刃を持つ男一人を出し抜いて家を飛び出す位は出来るだろう。
もしくは、台所へと駆け込んで包丁を手にすることも。
力では敵わないとはいえ、自分には類い稀な身体能力が備わっていることを少年は自覚していた。
少年に選択肢は三つ。
このまま家を逃げ出すか。
自分が死ぬか、相手を殺すか。
逃げることも、殺すことも、それは再び孤独な日々の始まりを意味していた。
果たして自分は相手を殺してまで生きたいのか。
一人で生きていくことを選ぶ意味が何処にあるのだろうか。
少年は、諦めた。
生きることを諦めることにした。
「お前など……さっさと売ってしまえば良かったんだ……! 見目良くしてからだなんて、考えたのが間違いだった……!」
優しさの奥にあった男の本心。
それを叩きつけられても、少年は微動だにしなかった。
優しかった男の記憶が瓦解ただけのこと。
今更、何の意味もない。
男から視線を外し、硬い木の床を見つめる。
泣くこともせず、虚無を瞳に映したその少年は冷静だった。
感情の糸が切れてしまったのかもしれない。
「父さん! 何してるのよっ!!」
見兼ねた娘が堪らず別室から飛び出してきた。
そして、少年を庇うように抱きしめる。
震える体で、冷たい手で、きつくきつく抱きしめられる。
「…姉さん…っ!」
双子の弟が別室の戸の後ろで小さく叫んだ。
「そこをどけ、サーシャ!」
酒で鼻の頭まで赤くした男は唾を飛ばしながら少年から娘を引きはがそうとする。
その力に少年の体もぐらぐらと揺れるが、それでもサーシャは手を解こうとはしなかった。

