それは、エナの意識が変化を見せた一瞬だった。

獣が身構え、姿勢を低くする。

エナは力強く床を踏みしめると、華奢なその体を宙に舞わせた。

水をしっかりと含んだ靴が、にちゃ、と嫌な音をたてる。

体を束縛するように纏わり付く服に苛立ちを抱えながらもエナは腕を振り上げた。

踏ん張ることが出来ない空中でさえ、ヌンチャクは思い通りに動く。

まるで、命が吹き込まれているかのように。



獣の躾の方法はただ一つ。



「鼻っ柱をぶったたく!!」



振り下ろしたヌンチャクが空を切る。

獣が後方に体を動かしたからだ。


「もう一回!」


空を切ったヌンチャクをそのまま横に薙(ナ)ぐ。

だが、獣だってそれを素直に受けるほど馬鹿ではない。

「っ!」

ヌンチャクを鋭い牙の餌食にしようと、獣は大きな口を開ける。

折れるまではいかないにしても、曲がってしまうのは容易に想像がついた。



「エナ! 退けっ!」


すぐ背後にゼルの声。

ヌンチャクを引き寄せて体を出来る限りずらすと、すぐ横に剣の切っ先を見た。

キィン…! と音が響く。

どう考えても貫通した音ではないが、ぱらぱらと細かな何かがエナの肩に降り注いだ。


「しゃがめ!」


ジストの声が次の行動を示唆する。

エナとゼルはしゃがみ、その膝の反動を使って横に飛び退いた。

ガゥン、と鼓膜を破るような攻撃的な音が放つ振動。

と、同時に獣が天井に向けて更に大きな咆哮を轟かせる。


黒い何かが獣の目から溢れたのがエナの視界に映る。

そしてそれはエナの肩から胸にかけてを黒く汚した。

生ぬるく、ねっとりとしたその液体。

闇を凝らせた獣の、命の象徴。

人間のそれとは全然違う、腐臭のような臭いが鼻孔を突く。

胃が引っくり返りそうになる激臭。

否、真実エナは嘔吐しそうになった。

咄嗟に口を押さえ、漏れそうになる嗚咽を必死に飲み込む。


この明らかに出来た隙を獣は見逃さない。

痛みよりも、生存本能が勝る獣はエナの首元に容赦なく襲い掛かった。