朝の通学路。
 空気はまだひんやりとして、桜が春の終わりを教えている。

 白石(シライシ)ひよりは、トーストをくわえて猛ダッシュしていた。
「やばっ、遅刻──!」

 角を曲がった瞬間、
 ──ドンッ!

「きゃっ!」
「うわっ……!」

 衝撃と同時に、ひよりの目の前を何かが飛んだ。
 瓶底メガネだ。
 レンズが陽にきらめき、アスファルトに軽い音を立てて落ちる。

 ひよりが顔を上げると、そこにいたのは──
 まるで少女漫画から抜け出したような、美しい少年だった。

「大丈夫?」
 低く柔らかな声。
 その顔立ちは、メガネを失ったことで一層際立って見えた。

 ひよりは、呆然と見つめたまま言葉を失う。

「……」
 黒瀬 碧(クロセアオ)はその視線に気づくと、慌ててメガネを拾い上げ、そっとかけ直した。

「そんなに目が悪いの? コンタクトの方がいいのに」
「このこと……誰にも言わないで」

「え?」

「僕の顔、見たこと……誰にも言わないで」

「どうして?」

「嫌なんだよ。厄介なことばかり起きるから」

「わかった」

 碧の表情が、ようやく少しだけ緩んだ。
 その安堵を見て、ひよりはふっと笑う。

「その代わり」

「え?」

「キスして」

 花弁を含んだの風が、ふたりの間をすり抜けた。




 朝の校舎。
 廊下を並んで歩くひよりと碧。

 それだけのことなのに、周囲の空気がざわついた。

「黒瀬って女連れ?」
「ドジでノロマなのび太のくせに、調子乗ってんな」

 笑い声が顔を刺す。
 碧の中学時代の元同級生たちが、ニヤニヤと肩を組んでこちらを見ていた。

 碧は俯いたまま、黙って歩く。拳が、わずかに震えていた。

「……は? 何それ。最低」

 ひよりが足を止め、きっぱりと言い放つ。
 その声には迷いがなかった。

 そして次の瞬間、彼女は碧の手をガシッと掴んだ。

「こっち!」
「えっ!?」

 強引に引っ張られ、碧は驚きながらも走り出す。
 階段を駆け上がり、廊下を抜け、風の差し込む扉を開け放つ。

 ──屋上。

「もうホームルーム始まるって」
「大事なのは今!」
「っ……?!」

 ひよりは振り返り、風に髪を揺らしながら笑った。

「入学式の時ね、退屈だったからお腹痛いふりしてここ来たの。
うちのクラスでここ入ったことあるの、たぶん私たちだけだよ」

 碧は息を整えながら、黙って彼女を見つめた。

「2人だけの秘密ね」

 チャイムが鳴る。
 校舎の下からざわめきが届く。
 けれど屋上には、2人しかいなかった。

 風が少し強くなる。

「……なんで、あんなこと言ったの」
「どのこと?」
「だから……キ、キキキキ……キスのこと」

「今する?」

 ひよりがケロっと言ってのける。

「そういうことじゃなくて! 理由を聞いてるんだって!」

 ひよりは一瞬、遠くを見つめた。
 空の青が、少し滲んで見える。

「『遊んでる女の方がいい』って……フラれたの」

「……もっと誠実な人がいるよ」

 その言葉に、ひよりの表情が一変した。

「ゴウはふざけてないもん! わかったように言わないで!」

「だけど、自分を大切にした方がいい。
僕のことだって同じクラスなのに知らなかったろ?
会ったばかりの男にキスをせがむなんて、どうかしてるよ。 あっ──」

 碧の言葉が途中で止まる。
 ひよりが、彼のメガネをひったくっていた。

 メガネを持った彼女の手が、屋上の柵の外へと突き出される。
 陽光に反射するレンズがきらりと光った。

「メガネの命がおしければ、私の言うことを聞け」
「な、何それ……!」
「いーのっかなー? 眼鏡なしで帰る羽目になっても。
きっと大騒ぎだな〜〜〜」

 風が吹き抜け、踊るようにひよりのスカートがひるがえる。

「く……返せ!」

 碧が慌てて手を伸ばす。
 もみ合いになり、2人の腕が絡む。

 その瞬間、ひよりの指がすべった。

「──あっ!」

 眼鏡が宙を舞い、鈍い音を立てて地面に落ちた。

「ど、どうしよう……」
「僕が……!」

 碧が身を乗り出すが、下は屋上の縁。
 危うい距離に足が止まる。

「危ないって! 私が行くから!」

 ひよりが階段を降りようと身を翻した、その時。

 ──カップル登場。

「あー、先客いた」

 ひよりの目が泳ぐ。
 彼らは明らかに“イチャイチャ目的”で屋上に来たようだった。

 とっさに碧の手を掴む。
 そして、抱き寄せた。

「っ?!」

 ひよりが顔を寄せ、碧の胸に手を当てる。
 まるで恋人同士のように寄り添う。

 息がかかる距離。
 碧の心臓が跳ねた。

 カップルが踵を返していく。
 沈黙の数秒。

 ひよりがそっと離れると、蒼の頬が赤くなっていた。

「……取ってくる。あっ──!」

 黒い影が横切った。

「カ、カラス!?」

 眼鏡が、カラスの爪先に掴まれて、あっけなく空へと消えていった。

 碧は呆然と見上げた。
「……僕の眼鏡……」



 階段を降りる。
 ひよりが先頭で、まるでスパイ映画の主人公みたいに壁に張り付きながら進んでいた。

「右、左、上……敵なし!」

 その時、曲がり角で生徒と鉢合わせ。

「うわっ!」

 ひよりが反射的に碧の襟を掴む。
 そして、上段へ駆け昇り──

 キス!

 角度的に蒼の顔は見えない。
 けれど、どう見ても恋人同士のそれだった。

「えっ……えええ!?」

 生徒が真っ赤になって逃げていく。

「……っ!!」
 碧は声にならない悲鳴を上げる。



 2人が廊下に出ると、腕を組んだ教員が待ち構えていた。

「おい。授業中だぞ」

「じ、自主練です!」

「……何の?」

「キスです!」

「はあ?!」

 2人、反射的に走り出した。
 廊下を全力で駆け抜ける。
 後ろで、教員の声が遠ざかった。



 校舎の外。
 息を切らして立ち止まる。

「ここまで来れば、大丈夫……」

 ひよりが笑い、額の汗をぬぐう。

「後は眼鏡店まで行けばミッションクリア」

「……ミッションって、楽しんでる?」

「──まさか」

「今の“間”は?」

「そ、それより早く眼鏡店に──」

 その時。

「ひより?」

 聞き覚えのある声。
 振り向くと、そこに立っていたのはキノだった。

「キノ! どうして、ここに?」

 碧は反射的に顔を背ける。

「急に自転車、壊れてさ。そっちこそ、こんなとこで何してんの?」

 キノの視線が、碧に向かう。
 訝しげに、目を細める。

「えっと、私がアオくんの眼鏡壊しちゃって、それで眼鏡店に行くの」

「……アオくん? それって……黒瀬?!」

「うん、何?」

「う、ううん。そっか、わかった。じゃ、また!」

 キノはそそくさと走り去る。

 残された碧は、ため息をついた。


 眼鏡店のドアをくぐった瞬間、空気がざわついた。

 ガラス越しに差し込む午後の光。
 その中で、碧の横顔が一瞬、白く輝いた。

「……え、あの子」
「モデル? いや、学生でしょ。制服、着てるし」
「顔、綺麗すぎない……?」

 店員も客も、思わず目を奪われている。

 碧は俯き、顔を隠すようにしてフレームを選び始めた。
 ひよりは、そんなことお構いなしに店員へ話しかける。

「このレンズ、かわいいですね!」

「ありがとうございます。こちら、オーダーメイドでレンズ込みで3万ですね」

「さんまん!?」

 ひよりは慌てて財布を開く。
 中身は──2千円。

「えっと……他に安いの……」

 店員が苦笑いを浮かべながら言った。
「もし、顔出しモニターになっていただければ、無料で提供できますよ」

「えっ! お得すぎる! やろうよ、アオくん!」

 碧の手が止まる。
 空気が、ぴたりと静止した。

「……本気で言ってる?」

「え? だって、無料だし──」

 碧は静かにフレームを置いた。
「帰る」

 その声は冷たくも、どこか傷ついていた。

 ひよりが「ちょ、ちょっと!」と慌てて追いかけるが、
 店を出た時には、もう碧の姿はどこにもなかった。



 翌朝。
 校門前から、ざわざわとした空気が流れてくる。

「黒瀬とキスしてたらしいよ」
「え、あの陰キャと!?」
「白石って、赤城(アカシロ)と付き合ってなかったっけ?」

 その噂は、あっという間に学校中へ広がっていた。

 ひよりが教室に入ると、空気が一段と冷たくなる。
 視線の矢が、静かに刺さる。

 碧はいつも通り眼鏡をかけ、ノートを開いていたが、指先が震えていた。

「アオくん、昨日は──」

 言いかけた瞬間、
 ──バンッ!
 机が激しく叩かれた。

 ギャルたちが立ちふさがる。
 艶やかなネイル、吊り上がった目。豪(ゴウ)の取り巻きだ。

「ねえ、二股かけてるってマジ?」
「ゴウのこと遊びだったの?」
「陰キャに乗り換えとか、ウケるんだけど」

 ひよりは、言葉を失った。
 喉が詰まる。

 碧が、助けに立ち上がろうとする。
 そのとき——

「──もう別れた」

 静まり返った教室の入り口に、赤城 豪(アカシロゴウ)が立っていた。

 制服の胸元は無造作に開けられ、ネクタイは緩く垂れている。
 指先にはシルバーのリングが光り、ポケットに手を突っ込んだまま、壁にもたれかかるような立ち姿。
 無表情なのに、どこか挑発的。
 切れ長の目は冷たく澄んでいて、見る者の心を射抜くようだった。
 その美しさは、危うさと隣り合わせ。まるで、触れたら壊れる硝子のよう。

 声には迷いがなかった。

「俺とひよりは、もう終わった。
だから、関係ないだろ」

 その言葉に、教室がざわめく。

 ギャルたちは互いに顔を見合わせ、やがてバツの悪そうに引いていく。

 ひよりは、ただ唇を噛んで立っていた。
 何も言えないまま。

 豪はひよりを一瞥もしなかった。
 そのまま背を向け、ドアの向こうへ消えていく。

 残されたのは、ひよりの胸の奥に沈む、言葉にならない痛みだけだった。



 ホームルームが終わると同時に、担任教員・木梨が黒板の前で腕を組んだ。
 年季の入ったスーツに、少しよれたネクタイ。
 額のしわと目尻の笑いじわが混在する顔は、脂ぎっている。
 声は低くて通る。説教モードに入ると、教室の空気が一気に張り詰まる。
「それから──黒瀬と白石。あとで職員室に来るように」

 ザワ……っと教室がざわめいた。
「え、なにしたの?」
「もしかしてまた?」
クラスメイトたちの囁きが、背中に突き刺さる。

 廊下を歩く2人。
 碧はうつむき、ひよりは何事もなかったように前を見据えていた。
 並んでいるのに、空気だけが遠い。

 職員室の扉を開けると、50代の担任が腕を組んでいた。
「わかってると思うが……こういったことがまたあれば、停学だ」
 声が低く響く。
「授業を抜け出して、廊下でイチャイチャするとは何事だ」

「すみま──」
 碧が口を開きかけた瞬間、ひよりが前に出た。

「アオくんは悪くないです。私が強引に授業をサボらせて、私が強引にキスしました」

「えっ……!」

「本当か?」
 木梨が眉をひそめる。
 碧は慌てて手を振った。
「い、いや、あの……!」

「私だけ罰してください」
 ひよりの声はまっすぐで、どこか誇らしげだった。

 担任は深いため息をつき、書類を机に置く。
「……今後は慎むように」

 2人は職員室を出た。


「無茶苦茶だ……無茶苦茶だよ、君は!」
 廊下を出た途端、碧が叫んだ。
「そんな性格だと、そのうち本当に停学、いや退学になるぞ!」

「そしたら、自分で自分に卒業証書あげるからいーもん」
 ひよりは涼しい顔で言う。

「っ?! 一瞬いいこと言ってるように聞こえたけど、手作りの卒業証書に社会的価値はないからな?! 就職どうするつもりだよ!」

「はぁ……」

「な、なんだよ。そのため息は」

「夢のないダテメガネだなぁ」

「うるさいんだよ! 人のメガネ壊しておいて!」

「ああ、そうだ。ごめん、ちゃんと謝ってなかった」
 ひよりは立ち止まり、碧の方を見上げた。
「バイトして払うよ、それいくら?」

「これは家にあった予備だからいい」

「でも……」

 そのとき、後ろから声が飛ぶ。
「痴話喧嘩か〜?」

 ひよりが振り返ると、クラスメイトたちがにやにやとこちらを見ている。

 碧は顔を真っ赤にして視線をそらし、教室に入ると足早に自分の席へ戻った。



 昼休みのチャイムが鳴った。
「は〜やっと昼休みだ! ねえ、キノ、お弁当──」

 ひよりの声に、キノは振り向かなかった。
 目も合わせず、ほかの女子グループに混じって笑いながらお弁当を広げる。
 その輪の中に、ひよりの居場所はなかった。

 ひよりは立ち尽くしたまま、少しだけ唇を噛んだ。
 そして、踵を返す。



 屋上は風が強かった。
 空はやわらかく晴れていて、遠くのビルの影が青く滲んでいる。

 ひよりは柵にもたれて、ただ空を見上げていた。
 その静けさを破るように、背後から声がした。

「あの……」

 振り返ると、碧がパンと牛乳を持って立っていた。
 どこかぎこちなく、それでも彼なりに気を使った様子で。

「お弁当、教室にある」
「あとで僕がもらって食べる」

 そう言って、パンと牛乳を差し出してくる。
 ひよりは受け取り、並んで柵に腰を預けた。

 2人は風の音だけを聞きながら、パンをかじる。
 ──沈黙。
 でも、気まずくはない。

「……いいよ、キスしても」
 突然、碧が口を開いた。

「今、口の中にパン入ってるんだけど」
「今じゃなくて!」
「いつ?」

 問い返すひよりの目は、ぱちくりと瞬いていた。



 放課後。駅前の人混み。
 ひよりはキョロキョロしながら辺りを見渡していた。

「白石さん」

 その声に振り向いた瞬間──
 息をのむ。

 そこに立っていたのは、シンプルだけど上質な服に身を包み、無造作ヘアにサングラスをかけた碧。
 いつもの七三メガネの秀才が、まるで別人みたいに“雰囲気男子”に変身していた。

 ひより(わ〜〜〜っ!? 誰!?)

 碧は照れくさそうに髪をかき上げた。
「そんなに見ないで」


 ローズガーデン。
 咲き誇るバラの中を歩いて、ティータイムを過ごして、最後にボートに乗った。
 風はやさしく、空はどこまでも広い。
 まるで少女漫画の「キスの条件」が全部そろったような午後だった。

 けれど、ボートが途中で止まる。

「どうしたの? 腕、疲れた? かわろっか?」

 オールを握る碧が、小さくため息をつく。
「……ムードない」
「え?」

「……するよ」
「うん?」

 碧が顔を近づける。
 その瞬間、ボートがぐらりと揺れた。

「きゃっ!」
「わっ!」

 次の瞬間、2人は抱き合っていた。
 息が触れ合う距離。
 頬が熱い。

「アオくん、顔真っ赤」
「うるさい」

 ひよりが笑うと、碧はさらに耳まで赤くなる。

「ねえ、でも──」

 その時だった。
「カアカア!」

 空を横切る黒い影。
 それは、屋上で落としたはずのメガネをくわえたカラスだった。

「あっ! メガネ!」

 ひよりはボートのオールを奪い取り、そして、全力で漕ぎ出した。

 碧の叫びが風に混じる。
「待って! そっちは浅瀬だって!」

 けれどひよりの目は真剣そのもの。
 ──それはもう、恋と事件のはじまりみたいに。



 森の中は、ざわざわと羽音が響いていた。
 黒い影が木々の間を飛び交い、葉の隙間から光がちらつく。

 その中心で、豪が立っていた。
 腕を振り上げるたびに、カラスが次々と倒れていく。
 地面にはすでに“山”のように積み上がった黒い羽根の塊。

「なにしてるの?」
 ひよりが呆れ半分に声をかける。

 すぐそばで、緑川 翔(ミドリカワカケル)が木の陰から顔を出した。
 明るい茶髪はゆるくセットされていて、風に揺れるたびに光を反射する。
 制服のシャツは第二ボタンまで開けて、袖はラフにまくっている。
 笑うと八重歯がちらりと見えて、どこか子犬っぽい雰囲気。
「縄張り争いしてるんだよ。ゴウくん、昔からカラスに好かれない体質だからね」

「ふうん……ねえ、眼鏡見なかった? 分厚いやつ」

「それなら、あのラスボスに献上されたとこ」

 カケルが指差す先。
 1メートルはあろうかという巨大カラスが、まるで王のように枝の上に陣取り、碧の眼鏡を頭にちょこんと乗せていた。

「ちょっ……サイズ感おかしくない!?」

 ひよりは眉をしかめ、ポケットからなにやら取り出す。
 ──煙玉。

「逃げろ、ひよりちゃん、それは人間界でも最終兵器だ!」
 カケルの声を無視して、ひよりはライターで火をつけ、煙玉をカラスの群れに放り込んだ。

「いっけえええええ!」

 ぼふん、と白い煙。
「カアアッ!?」
 悪臭に堪えられないカラスたちが一斉に羽ばたき、森が真っ黒な嵐のようにざわめく。

 やがて煙が晴れると、巨大カラスも姿を消していた。
 地面には、無事に──いや、ちょっと曲がった碧の眼鏡が落ちている。

 ひよりは得意気に眼鏡を回収して、持ち主に渡す。

「ありがとう……でも壊れてる」
 碧が苦笑いする。

 ひよりは即座にポケットを探って、アロンアルファを差し出した。
「ほい、これ」
「……ありがとう」

 ひよりは鼻を鳴らして頷く。
「任務完了、っと」

 カケルが拍手するように笑った。
「さすが、ひよりちゃん」

 豪は黙ったまま、ちらりと2人を見てから視線を逸らした。
 森の奥で風が吹き抜ける。



 夜。
 街灯が点々と灯る住宅街。
 秋の風が少し冷たくて、吐く息が少しだけ白い。

 ひよりは碧を家の前まで送っていた。
 2人、門の前で並んで立つ。

「普通、逆じゃないかな。僕が送る側でしょ」
「だってアオくん、いつも足元おぼつかないし危なっかしいんだもん」
「きょ、今日は大丈夫だったよ?」
「うん、そうだけど……心配なの」

 碧はため息をついて、真面目な顔で言った。
「わかった。信頼を積み重ねられるよう努力する」

 その言葉に、ひよりはくすっと笑う。
「こんなかた苦しくなくていいよ」

 少しの沈黙。
 街灯の光が2人の影を長く伸ばす。

「今日は、ありがとう」

 そう言って、ひよりは一歩だけ近づいた。
 そして──

 チュッ。

 唇に唇が重なって、碧の動きが止まる。
 時間も止まったみたいに。

「またね」

 ひよりは軽やかに手を振って、背を向ける。
 その背中が街灯の向こうに消えるまで、碧は玄関前で、ただ立ち尽くしていた。

 頬が熱くて、何度も深呼吸をした。
 胸の奥が、まだドキドキとうるさいままだった。





 ひよりはパンをかじりながら、スマホの画面をスクロールしていた。

「今度はどこ行こっか〜」
 画面を碧に見せる。
「これは?  藤がいっぱいだって!  花好きでしょ?」

 碧は苦笑交じりに首を振る。
「いや、花が好きってわけじゃ……」

 その瞬間、カンカンカンカン!
 2人、びくっと身体を跳ねさせる。

 窓の外を見ると、カラスが嘴でガラスを叩いていた。
「……あれから僕、ずっと狙われてるんだけど」
 碧の声は小さく、でも真剣だった。

 ひよりは鼻を鳴らす。
「ふうむ」

 窓の端から、キノがじっと2人の様子を見ている。
 微妙に眉をひそめ、興味と警戒が入り混じった顔。





 登校時間に玄関を開けると、そこにはひよりが立っていた。
「アオくん!」

「わっ!」
 碧は思わず後ろに1歩下がる。

「作ってきたの!」
 ひよりは小さく胸を張って、自慢げに袋から取り出す。

(まさか……弁当? 恋人みたい……)
 碧の頭の中でドキッとする思いがよぎる。

「じゃーん! カラス避けマント!」

 マントには、接着剤で貼りまくられたCDがびっしりと並んでいて、朝日を受けてキラキラ反射している。
 ひよりは迷わず、そそくさと碧の肩にマントを巻きつけた。

「こ、これで外は歩けないって!」
 碧が困惑する声で言う。

「大丈夫。握手券は抜いてあるから」
 ひよりは得意げに笑う。

「そういうことじゃなくって!」
 碧の声は追いつかない。

 その瞬間──

「カアカア! カア?!」
 空からカラスが急降下!

 だがマントの反射光を見たカラスたちは、軌道を変えて逃げていった。

「……ほんとに効いてる」
 碧は驚きと安堵で小さく呟く。

「でしょ! これで安心して登校できるね!」
 ひよりは満足そうに胸を張った。



 学校のグラウンドに出ると、すでに騒ぎが起きていた。

「なんだあれ……地味のび太だ」
「気でも狂ったのか」「なにあのマント」

 中学の同級生たちが、碧に向かって小馬鹿にした声を上げる。
 だが、そのとき──

 空が黒く染まるほどのカラスの大群が襲来!

 数え切れないほどの黒い影が、翼を広げ、まるで嵐のように舞う。
 ひよりは眉をひそめ、叫ぶ。
「アオくんを攻撃できない鬱憤で、他の生徒を襲ってるのよ!」

 先生たちが慌てて校舎内に避難を呼びかける。
 結局、臨時休校が決定され、グラウンドは黒い羽根の嵐に包まれたまま、撤退する生徒たちの声だけが残った。

 ひよりは碧の肩に手を置き、笑う。
「ほら、作戦大成功!」

 碧は苦笑しながらも、視線だけはまだ空を覆う黒い影に釘付けだった。





 お台場のゲームセンター。
 ひよりは楽しそうにカラフルな光の中を走り、碧の肩を軽くつつく。

「変顔しよ!」
 ひよりの声に、碧は小さく首を横に振る。
「……やだ」

 しかし、出来上がりを待つ間に、背後の騒がしい声と足音が聞こえた。
「だからさー、ゴウの魅力はあの色気なのー」
「わっかる、ソレー!」
 豪の取り巻きギャル軍団が近づいてくる。

 ひよりは即座に碧の手を掴み、レーンの間を縫うように逃げ出す。
 プリクラ機の前に並んでいた他の客も驚きの声を上げる。
「捕まる前に逃げよ!」

 2人は頷き合いながら、出口へと駆け抜けた。



 ゲームセンターの上のフロア。人が少なく、少し落ち着いた空間。
 ひよりはショッピングモールの通路を歩きながら、碧に話しかける。

「ここなら落ち着くね」
 碧は肩で息をしながらも、少し笑みを浮かべる。
「……そうだね」

 2人でフロアを回り、少しだけ日常の空気を取り戻す。



 南京錠スポット。金網にはカラフルな鍵が無数にぶら下がっている。
 記念撮影と、偶然行われていた芸能人のトークイベントが同時に進行中。

「ここ、鍵いっぱいあるよ〜〜〜」
 ひよりが目を輝かせる。

「……南京錠、かけるの?」
 碧は少し戸惑う。

「うん、記念に!」
 ひよりは嬉しそうに小さな鍵を購入し、イニシャルを書き込んでフェンスにつける。

 その瞬間、カメラマンが叫ぶ。
「キスしてるところ撮りまーす。サングラス外してくださ〜い!」

 碧は慌てて首を横に振る。
「……無理」

「まあまあ、日光に弱いんです、彼…」
 ひよりがフォローするが、次の瞬間──

「カアカアッ!」

 空からカラスが急降下。サングラスを奪い取り、碧の顔が露出してしまう。
 周囲の人々はざわつき、写真を撮り始める。

「えっ、誰?! 美形すぎない?!」
 サプライズ登場の芸能人と勘違いされ、碧はさらに注目を浴びる。

「逃げよ!」
 ひよりが叫び、2人は騒然とする観客をかき分けて逃走。



 同敷地内の人が少ない公園にたどり着き、2人は肩で息をしながら立ち止まる。
 握っていた手をそっと離す。

「君といると、走ってばっかりだ」
 碧が吐息混じりに言う。

「あはは」
 ひよりは笑いながら芝生に転がる。

 碧はその姿を見て、フッと息を吐き、隣に腰を下ろす。
「このままカラスやっつけに行く? キスする?」

「2択っ?!」
「うん」
「今日はキスしよう」

 碧はそっと顔を近づけ、唇を重ねる。

「下手」
「うるさい! 仕方ないだろ、初めてなんだから。自分からするの」

「……そっか。悪い女もいたもんだね」
「君だけどね」

 ひよりは空を見上げ、夕日に照らされる水面を指差す。
「見て、夕日が綺麗」

 碧も視線を合わせ、同じ時間がゆっくりと流れていった。




 翌朝の校舎はざわめいていた。
 昇降口をくぐった瞬間、廊下の空気がピリつく。

「なにあれ……」
「プリクラ、見た?」

 ざわつきの中心にいたのは、碧とひより。
 蒼の中学の同級生が、彼にスマホを突きつけてきた。
 画面には──昨日お台場で撮った、プリクラの画像。

「これ、お前らだろ?」
「黒瀬、眼鏡外して見せろよ」

 碧が1歩下がると、後ろはすでに壁。
 逃げ場を失ったそのとき──

「何してんの?」

 低く響く声。
 振り向けば、豪が腕を組んで立っていた。
 詰め寄っていた生徒たちは一瞬で怯み、道を開ける。
 その隙に、ひよりは碧の手を取って包囲を抜け出した。



 静まり返った美術室の中、ひよりが机の上に化粧ポーチを広げている。
 碧は落ち着かない様子で鏡を見つめた。

「……本当にやるの?」
「やるの!」

 ひよりは演劇部から拝借してきたウィッグを被せ、軽くチークを入れる。
 制服の上にカーディガンを羽織らせ、スカーフを結ぶ。

「……できた!」

 鏡の中には、ぱっと見、清楚系の女子生徒。
 碧は絶句した。

「……僕、誰?」
「アオ子!」


 2人が校門を抜けようとした瞬間、翔が前に立ちはだかる。
「そこのスペシャルビューティー、どちらに用事ですか? 案内しますよ」

 碧(アオ子)が固まる。
 後ろで豪が額に汗を浮かべている。ひよりを探していたからだ。

「……ひより」
「え、ひよりちゃんいたの? 見えてなかった。彼女、知り合い? 紹介して」

 ひよりは、ヒョットコのような口を作って言った。
「美男を不細工にする方法、教えてくれたら一緒に遊んであげる」

「そんなん詐欺メイクすれば?」
「んー、いや、美しくしたいんじゃなくて“不細工”にしたいの」

「だから(東急)ハンズ行けば売ってるんじゃない? 特殊メイクの道具」

 そのまま流れで一行は放課後の街へ出ることになった。


 個室のネオンライトの下、謎の4人が向かい合う。
 翔は隣のアオ子(中身は碧)にぐいぐい距離を詰め、ひよりはデンモクをいじりながら、内心でため息をつく。

(なんで私、元彼とその友達と女装したキス相手と一緒にカラオケいるんだろ)

 仕方ない、とマイクを手に取る。
 けれど──

 豪が立ち上がり、ドライフラワー(by優里)を入れた。
 歌声が流れ出すと、ひよりの表情がわずかに切なく揺れる。
 その横顔を、アオ子(碧)が見てしまう。
 胸の奥に、言葉にならない痛みが広がる。



 歌い終え、外に出ると翔が言った。
「俺、この彼女(アオ子)送ってくから」

「「えっ」」
 ひよりと碧の声が重なる。

 その瞬間、豪が無言でひよりの肩を担ぎ上げた。

「ちょっ、待っ──きゃあああ!」

 豪はそのままスタスタと歩き出す。
 蒼が慌てて叫んだ。
「待て、彼女に乱暴するな!」

「大丈夫、大丈夫。ゴウは世界で1番ひよりちゃんを大事に想ってるよ」
 翔が口元に笑みを讃えた。

「はあ? 別れたんでしょ?」

「一緒にいることだけが、愛のすべてじゃない」


 公園のベンチに降ろされ、ひよりはようやく息をついた。
 が、すぐにベンチの背もたれに手をつかれ、壁ドン状態になる。

「あいつのこと、好きになったわけ?」

「それゴウに関──オエエエエエ」

 突然、涙目でえずくひより。
 ゴウは一瞬絶句し、自販機に向かうとジュースを買って戻ってきた。

 ひよりは受け取って、一口。
 炭酸の刺激で少し落ち着く。

 2人は並んでベンチに座り、星空を見上げた。

「落ち着いたか」
「うん」
「帰るぞ」

 短いやり取りの中に、言葉にできない距離の近さと、遠さが滲んでいた。




 午後の陽射しが、校舎の屋上に差し込んでいた。
 フェンス越しに風が吹き抜ける。

「かゆい」
「あ、剥がしちゃダメってば」

 ひよりが慌てて手を伸ばすのをよそに、碧は瞼に貼っていた特殊メイク用のシリコンをはがした。

「もう3日もこれで過ごしたんだからいいだろ。限界。かぶれるんだって」
「でも、また眼鏡取られたら困るし──あっ!」

 その瞬間、アオの背筋がゾクリとした。
 指先に触れた風が妙に冷たくて、胸の奥に嫌な予感が灯る。



「なんだ、こんなとこに呼び出して」

 担任の木梨が入ってくる。
 古びたチョークの粉の匂い。窓の外では体育の笛が遠くに響く。

 ひよりが1歩進み出た。
「実は、かくかくしかじかで──」

「は? 美しすぎて困ってる? そんなバカな」
「本当なんですって。ほら」

 渋々、アオが眼鏡を外す。
 瞬間、担任は言葉を失った。

 黒板の前で、静寂が訪れる。


 その後、帰りのホームルームで。
「……とにかく。黒瀬の眼鏡を取ろうとした生徒は停学処分にする。今後も同じ措置を取る。いいな?」

 教壇の上から、きっぱりと告げる教員の声。
 ひよりは胸を撫で下ろした。
「よかった~、うまくいった」
「……うーん」
 アオはどこか複雑な表情をしていた。




 昇降口で靴を履き替えながら、ひよりがぼやく。
「あー、ディズニーランドどんどん値上がりしてくチケット代……」

「好き……そうだね」
 アオの言葉に、ひよりは小首を傾げた。

「ん? なにが?」

 そのとき、背後から声が飛んだ。
「いたいた、ひよりちゃん!」

 振り向くと、翔が笑顔で駆け寄ってきた。
「これ」

 差し出されたのは、ディズニーランドのペアチケット。

「WA・O!」
「あげる」
「いいの?! やったー!」
「その代わり──」



 チケットの力でやってきた夢の国。
 ひよりは耳カチューシャをつけ、アオ子(蒼)は、やや気まずそうに後ろを歩く。

「次、ハニーハント行こう!」
「う、うん……」

 続くスペース・マウンテン。
 アオ子は顔面蒼白で手すりを掴み、ひよりは爆笑。

 ホーンテッドマンションでは、ひよりが幽霊を指差してケラケラ笑う。
 豪とひよりのコンビは、荷物を渡すタイミングまで完璧。
 アオ子はその光景を、少し離れた場所から見つめていた。



 休憩のあと、ひよりがトイレに行った。
 しかし、そこで3人組の女子──キノたちに出くわす。

「ねえ、ちょっと来て」

 有無を言わさずどこかへ連れていかれる。
 一方、豪たちのもとにはキノが現れた。

「ひよりが『先に帰るから』って伝言頼まれた。合流して一緒に遊ぼうよ」

「おかしい」
 アオ子が首を傾げる。
「白石さんが、そんなこと言うなんて」

 だが豪は、真顔のまま頷いた。
「わかった。行こう」

「え?」

 人気のない裏通り。
 次の瞬間、豪がキノの胸倉を掴んだ。

「ひよりを、どこにやった? 正直に言え」
「ごほっ……なんで、別れたなら放っておきなさいよ!」
「俺は──ひよりのためなら、お前でも殺す」

 低く唸る声。
 キノは恐怖に怯え、ついに場所を吐いた。

 駆けつけた先では、担任教員の木梨がひよりを助け出していた。

「子供たちの付き添いできたら、叫び声が聞こえたもんだからな。まさか白石がいるとは思わなかった。間違って入ったんだってな?」

 アオ子は唖然とした。
 翔が笑って肩を叩く。
「本当にそそっかしい〜」

「気を付けるように」
 担任はそう言って去っていった。

 豪は回収したスマホをひよりに渡す。
 何か言いかけたその時──

「ゴウじゃん!」

 ギャル軍団が現れ、豪と翔をそのまま引っ張っていってしまった。


「(ゴウたちは)忙しそうだから、2人で行こうか」

 アオ子とひよりは人混みを抜け、静かなエリアを歩いた。
 どこかから、通行人たちの声が聞こえる。

「12時の鐘が鳴り終わるまでにシンデレラ城の前でキスすると、永遠に結ばれるんだって」
「ロマンチックだねー」


 フェアリーテイル・ホールで、ひよりは次々とドレスを指差す。
「これアオくんに似合いそう! あれも、それも!」
「僕が似合っても……」
「いっそ女装でTikTokとかやれば? バレないんじゃない?」
「……白石さんがやりたいなら」

 イッツ・ア・スモールワールド、トゥーンタウンでの軽食、そして夜のパレード。
 やがて2人は、ライトアップされた城の前に立っていた。

 ひよりは見上げ、ぽつりと呟く。
「……綺麗」

 ロマンチックな音楽が流れる中、アオ子は言葉を失う。
 脳裏に浮かぶのは、ひよりと豪の姿。
 2人の間に流れる“呼吸の合い方”が、どうしようもなく胸を締めつけた。

「もう帰らなくちゃ」
「待って」

「?」

「その……えと……いや、なんでも」

 アオ子の形にならない言葉は、光の粒に紛れて夜空へ消えた。



 夢の国のきらびやかな光が、雨粒に滲んでいた。
 閉園アナウンスが響く中、アオ子とひよりは出口の屋根の下に駆け込む。
 突然の豪雨に、2人の髪も服もびしょ濡れだ。

「うわ、最悪〜」
「……すごい雨だね」

 そのとき、背後から落ち着いた声がした。
「やっぱりいたか」

 木梨だった。
 傘を差し、ゆっくりと歩いてくる。

「どうも気になってな。子供たちを送ったあと、戻ってきたんだ」
「先生?」
「車に乗りなさい。送っていく」

「豪達は?」
「もう帰ったんだろう」

「うーん……」
 ひよりは一瞬首を傾げたが、土砂降りの雨を見上げて観念する。


 ワイパーが一定のリズムで動き、雨音が車内を包む。
 フロントガラスを叩く雨が、どこか不穏な音楽のようだった。

 担任はふとウインカーを出す。
「ちょっと寄るぞ」

 車が止まったのは、コンビニの駐車場。
 担任は外へ出ていき、数分後、ホットコーヒーを2つ手に戻ってきた。

「寒いだろう。飲みなさい」

 ひよりは笑顔で受け取る。
「ありがとうございます」
 アオ子も静かに頷き、「いただきます」と言って一口飲んだ。

 ……そして──

 目を開けたとき、手足は縛られ、冷たい床の上だった。



 割れた窓から、雨のしずくがポタリと落ちる。
 錆びたドラム缶、埃まみれの机、そして……狂気に染まった木梨の目。廃屋の中。

「アオたん……俺のものだ……運命なんだよ」

 担任の声が、甘ったるく、ねっとりと空気をねじ曲げた。
 アオ子が身体を引くと、縄が食い込んで痛む。

「やめて! アオくんは私の!」

 ひよりが身をよじり、必死に担任の腕に噛みつく。
「イテテテテテ、くそ……!」
「きゃっ!」

 木梨はその腕を力いっぱい振り払う。

 蒼は必死に体を起こし、声を張り上げた。
「白石さん! やめろ! 僕はどうでもいい! 彼女を放せ!」

「アオたん、怒った顔もカアイイでちゅね〜」
「ぐっ……!」

 担任の舌足らずな声が、空気を粘つかせる。
「お望み通り、可愛がってあげまちゅよ〜」

 ひよりは必死に頭を振り、涙をこぼした。
「誰か……助けて……!」



 轟音。
 木の扉が吹き飛ぶように開いた。

「アオ子ーーッ!!」
「ひより!!」

 嵐のように飛び込んできたのは、豪と翔。

 担任が振り向く間もなく──
 豪の拳が唸りを上げ、翔が椅子を蹴り飛ばす。

「こいつッ!」
「キモすぎ!!」

 担任の体が床に沈む。
 翔が素早くアオ子の縄を解き、豪はひよりの手をほどいた。

「白石さん、大丈──」

 その言葉を遮るように、豪がひよりを抱きしめる。
「心配させるな、バカ」
「うん……ごめん」

「ハイハイハイハイ」
 カケルが手を叩いて場を切る。
「感動の再会は、その辺にして。それより電波ないんだけど?」

「千葉って電波ないの?」
「(電波)妨害装置だろうよ」
 豪が肩を竦める。
「こうも暗いと探せないなぁ。仕方ない、歩いて警察呼びに行こ」

 2人は担任を縛り直し、ドアの方へ向かった。
「よし。じゃ、行ってくるね」
「気を付けてね」
「おう」

 扉が閉まり、雨の音だけが残る。

「大丈夫? アオくん」
「……」
「どっか痛いの?」
「……違う。情けなくて」

「え?」
「守られてばっかりで」

 ひよりは、微笑んだ。
「別にいいじゃない。できる時にできることすればい──」

「白石さん? 白石さん!」

 ひよりがぐったりと体を傾けた。
 アオは慌てて額に手を当てる。熱い。

「高熱だ……」

 彼は周囲を見回し、錆びたドラム缶を引き寄せる。
 紙や木片を燃やし、かろうじて暖を取る。
 自分とひよりの濡れた服を剥いで、冷えた体を抱き寄せた。

「大丈夫、絶対助かるから」



 豪と翔が警察を連れて戻ってきた。
 扉が開き、懐中電灯の光が蒼たちを照らす。

「っ?!」
 豪の声が跳ねる。
「お、おま……!」

 翔が叫んだ。
「オトコー?!」

 蒼は半裸のまま、ひよりを抱きしめていた。
 その頬が、炎の明かりで真っ赤に染まっていた。




 ひよりが手を叩いて言った。
「仕切り直しだ、動物園!」

 上野の門前に立つ4人の姿は、どこかぎこちなかった。あの事件のあと、全員が休学しているせいもある。
 けれど、今日だけは何もなかったことにしよう。ひよりのその明るさに、誰も逆らえなかった。

 女装したアオ子(蒼)を見たカケルが、苦笑混じりにため息をつく。
「……気付かない方がどうかと思うぞ?」
 豪が言うと、翔が肩をすくめる。
「でもさ、クオリティ高すぎない? 普通に可愛いんだけど」
「私のメイクがうまいのー」
 ひよりが胸を張って笑う。アオ子は俯きながらも、その頬をほんのり染めていた。

「そういえば、どうやって私たちの居場所わかったの?」
 ひよりが尋ねると、豪が淡々と答える。
「そいつ(アオ)のストーカーしてたカラス捕まえて案内させた」
「えー、すご!」
「殴ってたよ」
 翔がぼそりと呟くと、豪が眉をひそめる。
「余計なこと言うな」
「ハハハ!」
 ひよりが笑う横で、アオ子はまだ言葉を探しているように黙っていた。


 原宿。
 ショーウィンドウに映るアオの姿は、もう本当に「女の子」だった。
 翔がテンション高く、服やウィッグを次々と勧める。
「これとか似合うって! マジでアイドルいける」
「やめてよ……」
 小声で抗議するアオ子に、ひよりが笑顔を向けた。
「アオくんは、お姫様だからなー」

 少ししてアオ子がひよりを振り返ると、少し離れたところで豪と彼女が話していた。
「これ、好きだろ。ひより」
 豪が指さしたのは、小さな花のピアス。
「うん、可愛い」
「買ってやろうか。バイト代入ったし」
 ひよりは首を横に振る。
「そういうのは……付き合ってる人に買ってもらう」
 短い沈黙。豪は視線を逸らし、ひよりはいつもの調子で笑って誤魔化した。


 その夜。蒼の家の前。
 街灯の下、2人だけになった。
「今日も楽しかったね」
「うん……」
 短いやり取りのあと、ひよりが手を振ろうとした。
「じゃ──」
「待って!」
 アオ子が1歩、前に出る。
「忘れてない?」
「スマホ?」
「いや、そうじゃなくて。もっと大事なこと」
「え、何だろう? 建国記念日?」
「もう!」
 焦れたようにアオ子がひよりを引き寄せ、そのまま唇を重ねた。

 夜の空気が止まったような静けさ。
 ひよりの目が驚きで見開かれ、アオ子は少し照れながら微笑んだ。
「おやすみ。次からは僕が送って行くから」



 サンシャイン通り。
 人混みの中を待っていたひよりが、ふと彼を見て声を上げた。
「わっ、男の人みたいな格好!」
「男なの」
 蒼は短く答える。清潔感あるシンプルなスタイルに、黒いサングラスをかけていた。
「それだとサングラスとれないよ?」
「いいんだよ」
 そっけなく言いながら、蒼が少しだけ笑う。
「ゲーセン行こう。プリクラ撮ろうよ」
「えっ?! 冗談でしょ……」

 ひよりの顔が引きつる。
 お台場プリクラ流出事件の記憶が、瞬間的に胸を締めつけた。
「大丈夫だって」
 蒼が静かに言う。
「でも……」
「検索しても出てこないから平気だよ」

 ひよりが訝しげにワードを打ち込む。
「え、あ、本当だ! ……何で?」
「プライバシー情報の漏洩は差止め請求できる」
「そーなの? え、すご……アオくんがしてくれたの?」
 アオは小さく頷く。
「ありがと」
 ひよりが言うと、アオは照れたように視線を逸らした。


 サンシャイン水族館。
「すごーい、水の中にいるみたい!」
 ガラスの向こうを群れる魚たちに、ひよりが目を輝かせる。
 アオは、その横顔をほほえましく眺めていた。

「ねえ、何百年も生きてるサメ、知ってる?」
「ニシオンデンザメ?」
「そう。それ!」
 ひよりが水槽を覗き込みながら言う。
「どうやって暇つぶししてると思う?」
 アオが少し考え、答えた。
「……諦めてるんじゃないか。そういうものだって」
「退屈なのを?」
「そう。そう生きるしかないから」
「変なの」
「何で?」
「そのサメの一生は、そのサメのものなんだから。楽しく生きようと思えばいいでしょ。つまらないって思って過ごせば、全部灰色に見えるに決まってるじゃない」
 ひよりの声が、水の反響に混じって柔らかく響いた。
「貝を拾ったり、タコに話しかけたりすればいいよ。それでも退屈なら」
「退屈なら?」
「愛する人を見つければいい」
 一拍置いて、ひよりが笑った。
「あ、そっか。サメか」

 蒼は黙っていた。その横顔は、水面の光に淡く照らされていた。



 プラネタリウム。
 館内が暗くなり、天井いっぱいの星が瞬く。
 ナレーションが静かに始まった。

「昔々、夜空に2つの星がありました。
1つは、まっすぐで情熱的な──**獅子座の星**。
もう1つは、静かで知的な──**水瓶座の星**。
2つの星は、遠く離れていたけれど……
ある日、流星の波に乗って出会いました」

 スクリーンに、獅子座と水瓶座がゆっくりと近づいていく。
 指先が触れた瞬間、流れ星が弧を描いた。

「2つの星は互いの光を受けて輝きを増しました。
そして、夜空に新しい星座が生まれました。
その名は──“ヒヨア座”。
意味は、“出会いが運命を変える”」

 ひよりが息をのんだ瞬間、蒼がそっとその手を取った。
 星の光だけがある中で、静かに顔を近づけ──
 星の海の中で、確かめるように始まったキスは、いつの間にか深く深く。
 世界が一時的に、無音になった。
 ひよりは息を忘れ、アオの体温だけを感じていた。

 やがて唇が離れる。
 至近距離で、アオが囁いた。
「ひより、今日は帰したくない」
「っ?! ○×£€₩$¿¡×○……」
 言葉にならないひよりを見て、アオがクスッと笑う。
「大丈夫だよ。ちゃんと帰す」
 ひよりは下唇を噛み、涙目になった。
 からかわれたと思って。
 けれどその横顔には、ほんの少し恋に落ちた人の光が宿っていた。





 春の陽射しがやわらかく差し込む朝。
 校門前に並ぶバスは、遠足前のざわめきで満ちていた。
 行き先は伊豆。海辺と温泉と──ちょっとした自由。

 自由行動の最中、ひよりのスマホが震えた。
「集合場所、変更になったって。先生から」
「ほんと?」
 蒼が眉をひそめる。
 ひよりが着信履歴を見せる。
「うん、ほら、早く行こう」
 2人は急いで別の場所へ向かう。

 けれど、そこにバスはいなかった。
 砂浜には、潮風だけが吹いている。
「……行っちゃった?」
「どうしよう」

 慌てて親に連絡を取る。だが、迎えを待つより自力で帰る方が早い。
 そう判断し、2人は駅へ向かった。



 夕飯をすませ、ひよりと蒼は鈍行列車に乗った。
 窓の外で、街の灯が滲んでいく。
 そのとき、スマホが震えた。
「……もしもし?」
『何でバスに乗ってない?』

 低く静かな声、豪だった。
 ひよりは事情を説明する。
 けれど、受話口の向こうで沈黙が続く。
 そして、ひよりにはわかってしまった。
 あの声は、静かに怒っている。
 ブチギレる寸前の、あのゴウの声。

 「……心配かけて、ごめん」
 小さくそう言うしかなかった。



 秋葉原駅では終電のアナウンスが流れ、人影のないホームに風が吹く。
「仕方ないからタクシーで帰ろう」
「……ねえ、ついでだしデートしていこ」
「えっ?!」
「嫌なことあったら、楽しいことで塗り替えるんだよ」
 そう言ってひよりが笑う。
「どこ行くの?」
「こっち」

 万カツの自販機の前。
 2人でサンドイッチを半分こして食べる。
「もう人いないから、眼鏡とって平気だよ」
 アオが静かに眼鏡を外す。夜の街灯が、彼の瞳に映る。



 神田明神。
 境内の灯がやわらかく揺れる。
「ちょっと不気味なんだけど……」
 肩を震わす蒼に、ひよりは毅然と告げた。
「神様が守ってくれるから平気」
 2人は並んで手を合わせた。
 ひよりが目を閉じて、そっと願う。
「アオくんと、ずっと一緒にいられますように」
 蒼は何も言わなかった。けれど、指先が震えていた。


 神楽河岸公園
 夜風が少しだけ冷たい。
 水面に街の灯がゆれている。
「眼鏡もメイクもしてないアオくんとデートするの、初めてだね。なんか嬉しい」
「……開放感、すごいよ」
「フフ、良かった。
桜、終わっちゃって残念だね。咲いてたら日本橋に行ったのに」
「来年行けばいい。ずっと僕と一緒にいるんだろう?」
 ひよりの手を、蒼が取った。
「うん」
 小さく頷いた瞬間、近くで水の跳ねる音がした。



 翌日・学校。
 教室の扉が勢いよく開く。
 ゴウが立っていた。
「ひより」
 その声に空気が凍る。
 事情をもう1度聞いた豪は、ギャル軍団を集めて言った。
「犯人、特定しろ」
「わたし知ってる、見た!」
 キノの言葉に、豪の目が細まる。

 そして直後、蒼の元同級生がボコボコにされたという噂が校内を駆け巡った。
 結果、ゴウは退学処分。



 マンションの一室。
 カーテンの隙間から、淡い光が差していた。
 豪がオーバーサイズのスエット着のまま、リビングに通したひよりに真顔で問う。
「……うち(実家)に行ったのか」
「そ。一人暮らししてるなんて知らなかった。おじさんが教えてくれて」
「アイツ(父親)に会ったのか?」
「そうだけど? どうしたの?」
「いや、別に」
「ご飯食べてないでしょ、どうせ。作ってあげる」
「お節介め」
「お互い様」

 コンロの音。湯気の中、ひよりの横顔がぼやける。
「うまい」
 彼女お手製のかつ丼をかき込んで、豪が言った。
「フフ。それは良かった。
ねえ、ところで最近カラス減ったよね。区が駆除したのかな」
「俺が話つけた」
「誰と?」
「カラスと」
「……おもしれー男」
「それ俺のセリフだろ」
 ひよりは笑いながら、心の奥で思う。
(ちょっと不思議だけど、やっぱり私を守ってくれるのは、いつもこの人)


「じゃあ、作り置きはタッパーだからね。食べないと怒るからね」
 ひよりがバッグを持ち、玄関に向かう。
 その瞬間、背後から温もりが包んだ。
 ひよりの背中に豪の胸板があたる。

 ゴウが低く囁く。
「本当に帰るのか?」

 その声は、怒りでも嫉妬でもなく──
 ただ、寂しさを隠せない少年の声だった。




 体育祭の日。雲ひとつない快晴の空の下、グラウンドの熱気は朝から高かった。
 玉入れ、ムカデ競走、綱引き──。
 どれも結果は散々だった。ひよりは最近ほとんど眠れない。豪との関係をどうすべきか、ぐるぐると考えてしまったのだ。
 蒼とふたり、見事なまでにポンコツで、クラスメイトたちのブーイングが飛ぶ。

「いい加減にしろ、白石ー!」
「黒瀬ー! そこ逆だってば!」

 ギャル軍団の1人が腕を組んで笑った。
「ほんっと、疫病神!
あんたのせいで豪が退学になったから、体育祭で嫌がらせしてやろうと思ったのに、勝手に自滅してくれるんだもん」

 ひよりは唇を噛む。胸がチクリと痛んだ。

 借り物競走。
 ひよりがくじを引くと「メガホン」と書かれていた。
 だが、応援団は誰も彼女にメガホンを貸そうとはしない。
 冷たい視線の中で、彼女は必死に探し回ったが結局見つからず、ビリでゴールした。

 その瞬間、ブーイングがさらに大きくなる。
 地面が揺れるような嘲笑。
 ひよりの視界が少し滲んだ。

「……もう、いやだ」

 最終種目、クラス対抗リレー。
 控え席で、他のクラスなのに何故かずっといる翔がため息をつく。
「仕方ないなぁ。カラス呼んで体育祭めちゃくちゃにしちゃおっか」

「待った」
 静かな声で蒼が立ち上がった。

 眼鏡を外し、ひよりの前に差し出す。
「預かってて」

「え、でも、そんな……」
 蒼はそれ以上何も言わず、グラウンドへ歩いていった。
 会場がざわめく。光を浴びた彼の素顔は、まるで別人だった。

「誰、あの子……?」
「あんなイケメン、うちのクラスにいたっけ?!」
「教室で取った時は一重だったよ」
「整形したもかな?」
「いや、流出プリクラの画像にソックリ」

 スターの登場のような空気。
 スタートのピストルが鳴る。

 アオは一瞬で加速した。
 風を切り、3人抜かす。
 歓声が上がる。誰もが信じられない顔をしていた。

 そして、アンカーが出場前に負傷。
 蒼は迷わず走り出し、再びコースに戻ってバトンを受け、もう1度トラックを駆けた。

 結果は──1位。

 静寂のあと、割れんばかりの拍手と歓声。

 蒼は汗に濡れた髪を払いながら、まっすぐひよりのもとへ向かった。

「ただいま」
「……おかえり」
「勝ったよ」
「うん、すごかった」
「ご褒美くれる?」
「え、なに?」
「好きになってほしい。僕を。今すぐじゃなくていい。待つから」

 その瞳に映るひよりの顔は、少し泣きそうで、でもどこか温かかった。


 ──数日後。

 蒼の隠し撮り写真が、ネット上で一斉に拡散された。
 「桜丘高校の美少年」としてニュース番組にも取り上げられ、学校にはスカウトや野次馬が押しかける騒ぎに。

 だが当の本人は姿を消した。
 「留学する」とだけ残して、蒼は姿を消した。

 その同時に豪が復学する。

 ひよりのもとへ群がる取材陣や好奇心の人々を、豪が前に立って遮る。

「アイツ、どこ行くって?」
「イギリスだって。大学もそのまま向こうで行くみたい」
「まったく、人騒がせな奴だな……でも、まぁ、アイツのおかげだしな」
「何が? そもそも、なんで復学できたの?」
「今は秘密」

 夕焼けに照らされた校門前。
 ゴウの声は、どこか照れくさそうで、優しかった。




 朝の日本橋。
 桜の花びらが風に舞い、スーツ姿の人々の肩に淡く積もっていた。
 ひよりはその中を歩きながら、足を止めて見上げた。
 散り際の桜は、どこか切ないけれど、美しかった。

 オフィスに着くと、社員たちがざわついていた。
「大講堂に集合だって」
「新しい発表らしいよ」
 半ば強制的に集められた会場の前には、社長が立っている。

「息子が留学を終えて、本日より我々の仲間として働くことになった。よろしく頼む」

 壇上に上がった青年が、穏やかに一礼した。
「ご紹介にあずかりました、紫瀬 蒼(ムラセアオ)です。本日より皆様と──」

 ひよりは思わず目をこすった。
 (……え? アオくん? いや、まさか。他人の空似? 苗字違うし。でもあんな奇跡みたいな美しい顔、この世に2つとある?)

 彼は社長の息子、紫瀬 蒼。
 だけど、その声も、笑い方も、10年前に見たアオとまったく同じだった。


 ──終業。
 退社したひよりは、迎えに来ていた豪と並んで歩く。

「もうちょっとで桜、終わりそう」
「ひより、第一声がそれ?」
「? だって綺麗だよ」

「薄情だな。僕の顔、忘れた?」

 背後から懐かしい声。
 振り返ると、そこに蒼が立っていた。

「え?」
「ただいま」

 ひよりは一瞬、息をのむ。
 けれど、すぐに冷静な顔で答えた。
「どなたですか? 私には紫瀬 蒼さんという友達はいません」

「子供の頃、何度も誘拐されかけたから。遠縁の家に養子に入ってたんだ。身元を隠した方がいいだろうって」

 沈黙。
 ひよりは俯いたまま言う。
「……今さら帰ってきても、もう時間切れです。私には豪がいますので。それじゃ」

 その腕を、豪がぐいっと押した。
「ちょ、ちょ、何を!?」
「俺じゃダメなんだ」
「何が? どういう意味?」

「俺たち、兄妹なんだ」

「はい? 寝言は寝て言って」

「冗談じゃない。本当なんだ。ひよりの本当の父親は、俺の父親だ」

 ひよりは立ち尽くした。
「……なんで、そんなこと……?」
「直接、親父から聞くといい。今から行こう」


 ──豪の実家。
 応接間に入るなり、豪の父が苦笑いを浮かべた。

「なんだ、バレちゃったか。簡単な話だ。娘よ、不倫だ」

 ひよりは間髪入れず、自分のカバンをまさぐった。

「いっけええええええ!」

 手にしていたのは──虫退治用の煙筒。
 それを豪快に実父へ投げつけると、白煙が部屋を包む。

 豪、ひより、2人の父、蒼は庭へ避難した。
 すると、空から2メートルある巨大なカラスが舞い降り、豪の父を掴んで空へ連れ去っていった。

「は〜、スッキリした」
 爽やかな笑顔のひより。

「……いいのか、それで」
 血の気のひいた顔の蒼。
「いいんだ、クズだから。
それより──妹を、よろしくお願いします」
「任されました」
「泣かせたら殺す」
「わかってます」
「勝手に話進めないでよ!」

 抗議するひよりを豪が担ぎ上げ、蒼の車に押し込んだ。

「ちょっとぉおおおっおおおおおっ!」


 ──それから20分、ディズニーランド。

 貸切の園内。
 ひよりはアオに、お姫様抱っこされていた。
「人が……全然いないよ?」
「そこなの?」
と、蒼が笑う。

 音楽とライトが灯り、2人だけのパレードが始まった。
 椅子とテーブルが並べられ、シェフたちが料理を運んでくる。
 食事が終わると、着ぐるみたちが現れ、ライトアップされたアトラクションを案内してくれた。

 そして、最後に──シンデレラ城の前。

 婚約指輪の入ったガラスの靴を持った着ぐるみが現れ、蒼の前に差し出す。
 彼はそれを手に取り、片膝をついた。

「10年間、愛してきました。この先も愛します。どうか僕だけの、お姫様になってください」

 ひよりは息をのみ、頬を染めた。

「キスは1日1回。ノルマです」
「わかりました。死ぬまで続けます」

 2人は抱き合い、静かにキスを交わした。
 イルミネーションが柔らかく光で包み込み、夜空に花火が咲き乱れ──

 12時の鐘が鳴った。








 □完結□