私たちは、別れる前に、もう一度月を見上げた。
「同じ月を見てるんですね。今、この瞬間」
私が口を開く。
「ええ。そしてこれから先も、何度でも」
葛城さんが穏やかに微笑む。その笑顔に、私の胸が満たされた。
「柊さん、今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。それでは……おやすみなさい、葛城さん」
私たちは、それぞれの方向へ歩き出す。数歩歩いて振り返ると、葛城さんも振り返っていた。
お互い手を振り合い、微笑んだ。
◇
家路につきながら、私は何度も月を見上げた。今日、何かが変わった。確実に、変わった。葛城律という人に、出会った。そして、惹かれた。
ポケットの中の名刺を、そっと触れる。
『陽月社 児童書編集部 葛城律』
絵本の編集者。橘マリを愛する人。同じような挫折を抱えている人。そして、私に「まだ終わりじゃない」と言ってくれた人。
私は、自宅の部屋に入ると、真っ先にクローゼットを開けた。奥に積まれた段ボール箱。4年間、開けていない箱。中には、美大の卒業制作がある。
『星降る森のおくりもの』
私が作った、絵本。出版社10社に断られて、諦めた夢。
私は箱を見つめた。開ける勇気が、まだ出ない。だけど……葛城さんに、見せてもいいかもしれない。不思議と、そう思っている自分がいた。
4年間、誰にも見せたくなかった作品。でも、葛城律という人は、きっとこの作品の「心」を見てくれる気がする。
私は段ボール箱に、そっと手を置いた。
まだ開けられない。だけど、開ける日は、きっともうすぐそこまで来ている。
月明かりが、窓から差し込んでいた。私は窓辺に座り、月を見上げる。
今、葛城さんも、同じ月を見ているだろうか。
スマホを取り出す。名刺を写真に撮って、連絡先を登録する。指が震えた。
『葛城律』
名前を入力して、保存。そして、メール作成画面を開く。何を書けばいいのかわからない。消してはまた書いて、消して……結局、送れなかった。
だけど、それでいい。焦らなくていいんだ。
運命を変えた60分間。美術館に閉じ込められた、特別な時間。橘マリの絵に導かれて。そして、葛城律という人に出会って。
私の中で、何かが確かに動き始めていた。



