その日一日、教室の空気はどこかぎこちなかった。

 朝のあの騒動のせいだ。
 誰もが私と時雨くんをちらちら見て、
 小声で何かをひそひそ言っている。

 だけど、私はなるべく気にしないようにして、ノートをめくったり、授業の準備をしたりして普通にしていようと頑張った。

 ……その時だった。

 ビチャッ。

 冷たい液体が、突然背中に落ちた。

 「……っ!」

 驚いて振り返ると、水筒を持った女子が立っていた。

 朝、私に絡んできたあの巻き髪の女子——美佳だ。

 彼女は驚いたふりをして、
 大げさに口元へ手を当てる。

 「あ、ごめーん! 手が滑っちゃった」

 明らかに嘘だ。
 わざとらしい声、わざとらしい表情。

 背中は濡れて、制服が冷たい。
 教室中の視線がまた私に刺さる。

 (やめて……お願い、もうやめて……)

 私は笑ってごまかそうと口を開いた。

 「だ、大丈夫だよ。ただの水だし——」

 「——雪菜」

 その声が聞こえた瞬間、
 背中よりも心臓の方が凍りついた。

 時雨くんだ。

 気づけば教室の入口に立っていて、
 こちらを真っ直ぐ見ている。

 怒っている時特有の、
 氷みたいな無表情。

 「何した」

 静かな声が、逆に恐ろしく響く。

 美佳の手が震えた。

 「ち、違うの。ほんとに手が滑って——」

 「嘘つくな」

 教室中の空気が一瞬で変わる。

 今までひそひそ話してたクラスメイトも、
 誰一人動かず息を飲んでいた。

 時雨くんは歩み寄り、
 美佳の水筒を見て、
 濡れた私の背中を見て、
 美佳の顔を見た。

 「……お前さ」

 その声は、冷たくて低い。

 「俺、朝言ったよな。雪菜に近づくなって」

 「ち、違う……!本当に偶然で——」

 「言い訳すんな。見苦しい」

 美佳の顔色から血の気が引くのが分かる。

 時雨くんは目を細めて続けた。

 「謝るなら雪菜にだ。……でも、お前は絶対謝らねぇよな」

 美佳は何も言い返せない。
 教室が静まり返る。

 私は慌てて立ち上がり、
 時雨くんの袖を掴んだ。

 「や、やめて。時雨くん、もういいから——」

 「よくねぇよ」

 振り払われはしないけど、
 時雨くんは一歩も引かない。

 「雪菜を濡らして、笑ってただろ」

 刺すような声。

 「……なんで、そんなこと——」

 私が言いかけた瞬間。
 時雨くんが静かに笑った。

 だけどそれは、優しい笑みじゃない。

 「雪菜が泣くの、俺の前だけでいいって言ったよな」

 「え……?」

 「他のやつに泣かされんの、我慢できねぇ」

 胸の奥がズキッと熱くなる。
 時雨くんは続けた。

 「雪菜は俺が守る。他の誰にも触らせねぇ」

 美佳が小さく震え、
 時雨くんの視線から逃げるように目をそらす。

 「雪菜、行こう」

 彼は迷いなく私の手を取り、
 濡れた背中を気づかうように、そっと抱き寄せる。

 「保健室行って着替えろ。……風邪ひかせたら、許さねぇからな」

 その声に、
 怒りと優しさと独占欲が混ざっていて——
 胸が締めつけられた。

 私は小さく頷き、
 握られた手をぎゅっと握り返す。

 時雨くんは私を横目で見て、
 ぽつりと言った。

 「……泣きたいなら、いいよ」

 「え……」

 「泣いていいのは、俺の前だけ」

 堪えていた涙が、
 そこで一気に溢れた。

 時雨くんはそれを指で拭い、
 誰にも見せないように私を抱き寄せた。

 「雪菜、俺がいる。誰にも傷つけさせねぇ」

 その言葉に、心が溶けるように温かくなる。