時雨くんの腕の中でしばらく過ごしたあと、
 ようやく私はゆっくりと顔を上げた。

「……そろそろ、入らなきゃ」

 そう言ったつもりなのに、
 声が震えてしまう。

 時雨くんはすぐに気づいた。

「まだ怖いか?」

「……少し」

「だよな。
 あんな目に遭って、すぐ平気なわけねぇよ」

 そう言いながらも、
 時雨くんは抱きしめる腕を緩めない。

 まるで、離したらまた誰かに奪われると本気で思っているみたいに。

「でも……ちゃんと家に入らないと。
 心配するから」

 言うと、時雨くんはゆっくり腕をほどいた。
 けれど、手だけは繋いだまま。

 門まで数歩。
 たった数歩なのに、歩くたびに手を握る力が強くなる。

「雪菜」

 呼ばれて振り向くと、
 すごく近いところに時雨くんの顔。

 さっきよりも、
 怒りでも焦りでもなく、
 ただ私に触れたい気持ちがあふれている目。

「……今日のこと、絶対忘れんな」

「忘れないよ」

「俺がどれだけ怖かったかも、ちゃんと覚えとけ」

 胸がしんと疼く。

 時雨くんは私の手首をそっと撫でた。
 さっき狼牙に掴まれた痕が、赤く残っている。

 その痕を見た瞬間、
 時雨くんの目が一瞬で冷たくなった。

「くそ……こんな痕、つけさせやがって。
 次やられたら……俺、我慢できねぇかも」

「時雨くん……」

「雪菜は俺の未来なんだよ。
 奪われたら、俺……終わる」

 吐き出すような本音。
 聞くのが怖いくらい重いのに、
 胸の奥がぎゅっと熱くなった。

 そのまま手を離すと思ったのに、
 時雨くんはもう一度、私の腰に腕を回した。

 今度は、さっきよりずっとゆっくり。

「……もう一回だけ」

 抱きしめられた。

 優しいのに、強くて、
 離さないって言ってるみたいな抱擁。

「お前の匂い嗅がないと、落ち着かねぇ」

「時雨くん……」

 顔を胸に押し当てられ、
 鼓動の速さが伝わる。

 本気で、心から、
 私を失うのを怖がってくれたんだ。

 しばらくして、ようやく時雨くんが腕をゆるめた。

「……じゃあ、また明日迎えに来る」

「うん。気をつけて帰ってね」

「雪菜がそう言うなら、気をつけてやるよ」

 最後に手を離す瞬間、
 指先が名残惜しそうに触れ続ける。

「……おやすみ、雪菜」

 低く甘い声。
 夜風に溶けていく。

「おやすみ、時雨くん」

 門をくぐるまで、
 時雨くんは一度も後ろを向かず、
 ただじっと私を見ていた。

 まるで——
 “俺のものを見送ってる”
 そんな目で。