駅前の喧騒から少し離れた先に、海沿いのカフェがあった。
 白いテラス席から海が見える、静かで落ち着いた場所。

「ここ、時雨くんが決めたの?」

「ああ。雪菜が好きそうだと思って」

 そんなことを、さらっと言う。

 席に着くと、海風がふわりと髪を揺らし、
 時雨くんの視線がその揺れを追った。

「……何?」

「雪菜の横顔、風にさらわれそうで怖い」

「そんなことないよ」

「ある。
 ……俺が掴んでないと、どっか行きそうだし」

 そう言って、テーブル下で手を探される。
 指先が触れた瞬間、絡め取られて離れない。



 注文したドリンクが届いても、
 時雨くんは手を離さなかった。

「雪菜、飲みにくくね?」

「時雨くんのせいでね?」

「……離さねぇよ?」

 予想どおりの返答。
 でもその声が低く笑っていて、胸が熱くなる。

 ドリンクを飲もうとしても、
 手を繋がれたままのせいで体が少しだけ寄ってしまう。

 そして気づいた。
 時雨くんが、じっと私の顔を見ている。

「……な、なに?」

「我慢してんの、分かる?」

「何を……?」

「雪菜を、触りたがってる俺の手」

 息が詰まりそうなほど甘い声音。

「デートだし、抑えてる。
 ……でも、限界近い」

「っ……!」

「手ぇ繋ぐだけで満足してると思うなよ」

 海より広い空の下なのに、
 世界が急に狭くなったみたいだった。



 会計を済ませて外に出ると、
 海風がひんやりしているはずなのに、
 時雨くんの手は熱かった。

「こっち来い」

 手首をそっと引かれて、
 テラスの陰になった壁際に連れて行かれる。

「……ここ、人いないし」

「だから連れてきた」

 壁に片手をついて、私を囲うように立つ時雨くん。
 海の音が遠くでざわめいているのに、
 耳に届くのは彼の呼吸だけ。

「雪菜」

「……ん?」

「今日、ずっと可愛い。
 歩くたび、誰かの視線集めんの……ほんと嫌だった」

 顔が近づく。
 海風の音さえ掻き消える。

「俺だけ見てろよ」

 指が頬に触れた。
 そのまま下へ、顎のラインをくすぐるように撫でる。

「……雪菜が欲しくなる」

「と、時雨くん……」

「安心しろ。無理はしねぇって言っただろ。
 でも」

 額がそっと触れる距離。

「今日はもう……雪菜の隣以外、歩く気しねぇ」

 手を繋ぎ直して、
 彼は私を海辺の遊歩道まで連れていく。

 その手は結局、海沿いを歩いても、
 どこに寄っても、一度も離れることはなかった。