「……雪菜。俺、限界」

 耳元でそう囁いた瞬間。
 時雨くんの腕が強く、私の腰を抱き寄せた。

 波が足もとで小さく砕けているのに、それすら聞こえないくらい——心臓がうるさい。

「し、時雨くん……」

「動くな」

 低い声。
 拒否を許さない響きなのに、不思議と怖さはなかった。

 むしろ——甘い。

 胸の前で腕を組まれて、
 息もできないほど近い。

「雪菜、さっきの……反則だろ」

「え……?」

「“時雨くんじゃないと嫌”なんて言われたら……もう、抑えられるわけねぇだろ」

 頬が熱くなる。
 夜風が冷たいのに、身体じゅうが熱い。

「ち、違うの。私、素直に言っただけで……」

「だから困ってんだよ」

 彼の顎が私の肩に乗った。
 ヘルメットを外したときより、ずっと近い。

 息が首筋に落ちる。
 それだけで膝が震えた。

「雪菜は……俺をどうする気なんだよ」

 耳の後ろに触れるか触れないかの距離で囁かれて、
 身体がびくっと跳ねた。

「ひっ……」

「反応すんな。余計……やばい」

 時雨くんの腕の中で、私は完全に動けなくなる。

 月明かりが海に揺れて、
 私たちの影がひとつに重なっていた。

「……雪菜」

 名前を呼ぶ声が、波より深い。

「離したくねぇ。前に、お前を仲間に紹介したとき……どれだけ誇らしかったか、分かるか?」

「誇らしい……?」

「あぁ。
 《黒焔》の総長が選んだ女が、雪菜だって……胸張って言える」

 まっすぐで、
 熱くて、
 息が詰まるほど真剣な声。

「……でもな」

 時雨くんは私の髪を、乱暴じゃなく、優しく撫でた。

「同時に……怖かった」

「怖い?」

「雪菜が……俺の手を離す未来が、一秒でも頭をかすめるだけで……胸が潰れる」

 こんな顔、誰にも見せてないんだろうな。

 夜なのに、目が燃えてるみたいに熱かった。

「時雨くん」

 私はそっと、胸元の服を掴んだ。
 落ち着かせるためでも、安心させるためでもなく——
 ただ、触れたかった。

「離れないよ」

 彼の息が止まった。

「……ほんとに、俺だけ?」

「うん。時雨くんだけ」

 その瞬間。

 ぎゅ、と抱きしめる力が倍になった。

「……雪菜……もう無理」

 低く漏れた声が、震えてる。

「好きとか……そういうレベルじゃねぇ。
 お前じゃなきゃ、俺……終わる」

 荒々しく聞こえるのに、
 ただ必死なだけの声だった。

「時雨くん……」

「だから逃げんなよ。ここからも……これからも……
 ずっと、俺の隣にいろ」

 波の音の中で、
 私は彼の背中にそっと手を回した。

 動けなくなるほど抱きしめられてるのに、
 安心で胸がいっぱいになった。

「……いるよ。時雨くんの隣に」

 時雨くんの指が、私の腰をゆっくり撫でた。

 夜の海も、風も、星も——
 全部が甘く溶ける。

「……雪菜。今の……録音して一生聞きてぇ」

「や、やめてっ……!」

 顔まで熱くなると、時雨くんが小さく笑った。

 その笑い方が、
 誰よりも私だけのものに見えた。