1945年8月上旬、エリザベートはジークフリートが官舎として与えられていた集合住宅の一室へ引っ越した。ここは4か国分割ではソビエト領であり、アレクセイの宿舎になったホテルとは徒歩圏だった。執事夫妻、女中のフリーダ、養育係ギゼラとその子カールといった元使用人たちも一緒だった。このドイツ政府の借り上げ官舎がどういった賃貸契約になっているのか、いつまで家賃が支払ってあるのか、そもそも大家が誰なのかも全くわからなかった。しかし当面、行先がここしか思いつかなかったのである。実家から「恒久的な収入」の保証のために譲ってもらったフリードリヒスハインの住宅が接収されていなければ、堂々と住めるのに・・・と歯ぎしりした。3つの寝室と水周りしかない小さな住宅である上に、戦闘であちこち破壊されていたが、この時期はひどい住宅事情で野宿やバラックで生活している人々も多いし、地下室やら果ては不法占拠も横行していたので、これでもかなり幸運だといえた。
先月アレクセイとのひとときを邪魔するかのように現れたイギリス人との交渉は今思い出してもはらわた煮えくりかえり、背筋の寒くなるものだった。交渉ではなく一方的な通告だった。
英軍は司令官の居住する邸宅を探していた。貴族である司令官とその妻は住宅に関していろいろと注文がうるさく、ようやく「静かな森の中の城のような邸宅であまり古びていないものを希望」というめちゃくちゃな条件の住宅をようやく見つけたのだった。この城は築100年を越していたがエリザベートの嫁入りに際してその持参金で大改装されていたので伝統的な古めかしさも残しつつ、最新の設備が入っていた。さらに戦争の被害もなく英軍にとってはうってつけだった。
あの時アレクセイがいてくれて本当によかったとエリザベートは考えた。英軍側からはなぜこんなところに、ベルリンの西の端っこにまだ赤軍の将校がいるのかという態度がありありとでていたので、アレクセイは「少し前まで憲兵事務所として接収していたことと、今も残置物とけが人が残っているので時々連絡があること」を説明した。
「そうですか、それはそれは」
いやみったらしい笑い方をされたが、その後の通告は笑えるものではなかった。英軍による接収と居住者の即時立ち退き………エリザベートは英語で書かれた公文書を手にとり、助けを求めるようにアレクセイを見たが、彼は首を振った。
「逆らうことはできない。そして、これは英軍の統治下のことなので自分には何の力もない」という目をしていた。エリザベートとしてはソ連軍が接収したときのように家主も同居でよいと思い込んでいたので、まさか自分たち家族と使用人が全員追い出されるというのは寝耳に水だったのである。
しかしアレクセイを交えた交渉のおかげで「即時立ち退き」には一週間の猶予をもらえた。どうせ司令官一家は夏のバカンスが終わるまでやってこないのだから。またエリザベートは残った召使たちの継続雇用をイギリス側に求めた。しかしイギリス側から雇用を拒否された。家庭教師は不要、執事も女中もイギリスから連れてくるということだった。しかしエリザベートは自分が外に働きにでようと考えていたので、昼間子供たちを見てくれる信頼できる人物が必要だったので4人とカールを喜んでつれていこうと決心した。カールは何よりエドゥアルトの遊び相手になるのだ。
家具や絵画、カーテンはそのままつけて貸すことになったので、シュミット弁護士を交えて膨大な書類にサインをした。ジークフリートのピアノを置いていくのは残念だったが、宝石とバイオリンは持っていくことにした。かさばらないし、時代が落ち着けば売って生活の足しにできるだろう。なにより豊かで楽しかった時代を象徴するものなのだ。ドレスと客用食器、シーツなどはマルタの実家の店の一角で売ってもらうことにした。物資が不足しているのでこの時期は中古品のリサイクルや物々交換が大流行だった。
一緒に間借りしていたというバーレ一家が出ていき、なんとかいう大佐がいないとはいえ、アパートは狭く、身の回りのものや最低限の衣料品、思い出の品を入れるとすぐにいっぱいになってしまった。ジークフリートの親衛隊の礼服も大切に持っていった。この黒い礼装をエリザベートは一番好きだった。戦争が始まる直前に親衛隊の制服は国防軍と同じフィールドグレイに変更されてしまって残念だった。彼女はこの黒い服を着たジークフリートに恋をしたのだから。
負傷兵と最後の残置物を撤収するという名目でトラックを借りてきてくれたのだが、念のため夜遅くに引っ越しは行われた。まるで夜逃げみたいだわ、と憂鬱な気分になりながらエリザベートは荷物を積み込んだ。
引越しにはナターリアとレオニードも手伝いに来てくれた。アレクセイとエリザベートの間にあった何かしらぎこちない丁重な雰囲気がなくなり、ちょっとした目線や会話が親愛あふれるものになっていることに二人はすぐに気づいた。
「あの二人、うまくいったんじゃないかなあ。少佐も最近すごく機嫌がいいし。書類を提出期限5分遅れた士官がいてさ、以前ならどやしてたのに『いいよいいよ』って受け取ってもらえたらしく、士官のほうがびっくりしてた」
「それはそうよね。二人の間でSieじゃなくてduを使っているもんね。ファーストネームで呼び合っているし……以前は『ジューコフ少佐』とか『フラウ・フォン・リヒテンラーデ』ってまどろっこしかったけど。少佐も戦争中は無愛想で戦闘のことしか興味ないって感じだったし、必要なことしかしゃべらない人だったけど、今日はちょっとしたことでも笑ったりしているし・・・この間なんて将官連中で冗談言いながら笑いあっているのを見かけてびっくりしたわ」
※訳注:ドイツ語の二人称には二種類あり、Sie(他人向けの敬称:あなた)とdu(家族友人向けの親称:お前、君)を使い分ける
Kommen Sie aus Japan? 日本から来られたのですか?
Kommst du aus Japan? 日本から来たのかい?
ナターリアとレオニードはトラックの運転席でそんな会話をしていた。アレクセイはリヒテンラーデ家の2人や使用人たちとともにバンを運転していた。
「この3ヶ月間のイライラが解消されたよ、オレ。やっと少佐は気持ち伝えたんだ。あの奥さんの方もまんざらでもなかったんだろう」
「でも、あの奥さんははご主人を待っているんじゃないの」
「戦争が終わってもう3ヶ月だ。アフリカ戦線に行ってたならともかく、ベルリンにいたんだろう? しかも軍人だったわけじゃない。うちの捕虜収容所も少佐に言われてオレがくまなく探したし……もう生きちゃいないよ」
「遺体が見つからないし、誰も死んだところを見たわけでもないし、心の決着がつかないのよ。きっと」
3ヶ月くらいで諦めて他の男に心を移すというのもどうか、とナターリアは思っていた。
「セルゲイ・ズボフスキー曹長……覚えているか?5月に街で……」
「ああ、あの人のこと探して連れて来いって少佐に頼まれたのよね、あなた。やっぱりあのきれいな金髪の女の子のことだったの?」
エリザベートはどうしてもアリシアのことが納得いかず、その後何度もアレクセイに調査を頼んだのであった。
「絶対に無理やり連れまわしているって奥様が言うもんだからね……戦乱のどさくさで強姦が多いものだから何度か禁止令が出ただろう? それなのに現場責任者の曹長がそんなことしていたらまずいもんな」
「ああ……」
ドイツ軍の捕虜収容所から解放されたソ連軍兵士は正規軍に編入されてドイツ領土へなだれこんだが、捕虜収容所での悲惨な待遇からドイツ国民への怒りとうらみはすさまじく、ドイツ領での蛮行はすさまじいものがあった。司令官からいくら通達があっても、将校が止めようとしても酔っ払った兵士たちを抑えることは困難を極めた。ジューコフ少佐が被害者たちの訴えを聞いて回ったり、もっと厳しい軍規粛正通達を出すよう司令官に対して求めているのを、ナターリアは何度も目撃したことがあった。自分とは普通に話をする兵士たちは100人がかりで現地人に襲い掛かり、ひどい場合は集団的な性的暴行の後乳房や手足を切って虐殺していた。4歳の女の子、80代の女性、妊娠中の女性・・・・・・東プロイセンが一番ひどかった。しかしポーランド領でも同じだった。いったいポーランド人がソ連に何をしたというのだろう。ナターリアは正気を保つのに精いっぱいだった冬場の記憶を消したかった。
「あのアリシアって子は兵卒の間では有名な美人だった。ズボフスキーの隊が到着するまでに相当ひどい目にあっていたと思う。ところがヤツの隊が到着したとたん、あの街区ではぴたりと強姦や略奪がなくなったんだ」
「どうして?」
「曹長はアリシアに頼まれてみんなに命令したんだ。まあ、セルゲイ自体は強姦とか買春とかしなくても女のほうからよってくるくらいの男前だ。けど、アリシアの美しさには目がくらんでしまったらしい。この女をどうしても守ってやりたいって思ったって本人の口から聞いたよ。知り合ってすぐにそういう契約みたいなことが成立したらしい」
「なにそれ、売春のオンリー契約みたい」
ナターリアの言葉には棘があった。
「まあまあ。アリシアは戦争末期に家族を徴兵やら空襲で失ってしまって一人ぼっちだった。焼け残った家で一緒に暮らそうって言い出したのは彼女のほうだ。今では普通の夫婦みたいに暮らしているって近所の評判だよ」
「占領地妻ってやつね」
「いちいちそうつっかかりなさんなよ、ナターリア。ズボフスキーは独身だから、もしかすると本当に結婚するかもしれないよ」
絶対ありえない、とナターリアはあきれ返った。セルゲイがアリシアに惚れこんでいてもアリシアのほうはそうではないだろう。めちゃくちゃな集団レイプから守ってくれて、食糧もくれて、他の連中より少々マシで利便性があるから一緒にいるにすぎない。
「そうそう、面白い話があってさ。あの日やつは風邪引いて寝てたらしいんだ。 あの前の日にアリシアをめぐって川べりで他の兵士と殴り合いの決闘をしたらしいんだ。いつの間にか二人とも川の中に入ってて、あくる日は二人してダウンさ。あの辺りの連中はみんな知ってる」
「ふうん……風邪ひいて寝てる人が女の子をベッドに引っ張り込むんだ」
「少佐は尋問のあとズボフスキーとビアホールで飲んでた。多分そこでヤツから言われたんだ……少佐殿、女を自分のものにしようと思ったら、ハッキリ態度で示さないと何も進みませんよ……」
レオニードは笑い転げて言葉にならなくなった。ナターリアはあわててハンドルを支えた。自分の国が負けていたらアリシアの運命もリヒテンラーデ夫人の運命も自分の運命になったかもしれない、と彼女は思った。しかし交際禁止令のせいで私たちがこうして夜中に引っ越しを手伝っているのに、セルゲイはなぜ堂々と一緒に暮らせているんだろう、とナターリアは疑問に思った。
新居が一通り片付くと、ナターリアとレオニードは帰り、フリーダとギゼラは子供たちを寝かしつけるために子供部屋にこもっていた。カウフマン夫妻も大佐が使っていた寝室に入ってしまった。エリザベートは台所兼居間として作られた部屋に置かれたテーブルでアレクセイと二人でワインを飲んでいた。彼は何度も部屋を見渡した。
「本当に……もっと庭のあるような広い家だって何とかしてあげたのに。子供のためには庭があるほうがいいよ」
7人で住むには狭すぎるし、自分が訪ねて来てもあまり居心地のいいものではない、という意味だろう。召使がすぐ傍の部屋にいるのでは落ち着いて話もできない。しかし一応ここは東側であり、ソ連軍占領地域にあるのでアレクセイが満足しているようなのも確かだった。彼も自由に行き来できる街なのだ。
「ここもいつまでいられるかわからないわ・・・そのうち新しい家も建つだろうし、お金が貯まったら引っ越すわ」
エリザベートは楽観的に言った。悲観的に考えても何も始まらないのだ。マルタの店に出した商品はよく売れていて当面の日銭には不自由なさそうだった。ソ連軍が接収した家を一つくらいアレクセイならどうにかできただろう。しかしそれは同じドイツ人家族を追い出し、路頭に迷わせることを意味した。エリザベートはそれだけは避けたかった。
「仕事は見つかりそう?」
エリザベートは首を振った。
「街には公職追放されたお役人がうじゃうじゃいるの。私なんか親衛隊中佐夫人でナチスの党員で婦人部の役員もしたし女子青年同盟の教師をしたこともあるのよ。職業経歴もなければ役に立つ資格も持っていないし……当分はマルタの店を手伝わせてもらうつもりなの。今は販売を委託しているけど来週からは自分でも店に立つ予定よ。私働いたことないから、結構楽しみなの」
この一ヶ月間はアレクセイと一緒にいることが本当に多かった。イギリス軍との交渉、新しい家の修理。彼は何でも付き合ってくれた。あの日のキスとそのあとのことを思い出すとエリザベートは体が震え、熱くなった。何度も彼のキスを思い出した。唇から頬そして首筋へと移って行った彼の唇と彼女の体を愛撫した彼の手を思い出し、顔を赤らめた。しかしアレクセイはそのことを全く話題に出さないし、彼女に触れてもこなかった。エリザベートは「君を愛している」というアレクセイの言葉をまた聞きたかった。もう一度彼の広い胸に抱きしめられたかった。アレクセイが何もしてこないのは、自分は何か失態を演じて嫌われてしまったせいだろうかとなどと考えたりもした。そしてこれではまるで自分が彼に片思いしているみたいだと呆れてしまった。
アレクセイは帰り支度をはじめ、帽子をかぶった。
「夏休みも取らずに働いているのに、また明日からも書類の山と格闘すると思うとぞっとするよ」
引越しも終わったし、英軍との交渉も終わってしまった。もうアレクセイに会う「用」がなくなってしまった。
「じゃ、おやすみ、エリザベート」
アレクセイは右手で帽子を少し持ち上げて挨拶した。やはり彼は今日も自分にキスをする気はないのだろうか。エリザベートは彼の制服の袖をちょっとつかんだ。
「あの、次はいつ会えるの、アレクセイ」
顔が熱い。自分でも顔が赤らんでいるのがわかった。目を合わせることすらできない。何でこんなに照れくさいのだろう。エリザベートがようやく顔を上げると、アレクセイが驚いた顔をしてのぞきこんでいた。
「忙しくて、約束はできないけど……」
「そう……」
彼女はがっかりして目をふせた。今の自分はこの男の言葉ひとつで一喜一憂してしまうのだ。次の約束がないと不安でたまらないほどに。彼女は自分のほうから彼の司令部や家に電話をかける勇気は持ち合わせていなかった。
「でもこれからは家も近くなったし、日中のパトロールがある日は店に寄るよ。店員と客で話すくらい、交際禁止令が出ていてもできるだろうし」
その言葉にエリザベートは微笑んだ。するとアレクセイは彼女を引き寄せて抱きしめた。彼の制服の胸につけられた勲章が頬にあたって痛かったが、男の腕の中でエリザベートは幸福を味わった。
「本当は毎日でも会いたいと思っているんだよ、エリザベート」
「ありがとう。うれしい」
「愛しいリーザ・・・」
「え?」
「ロシア語でもエリザベータっていう似た名前があって、愛称はリーザっていうんだ。君のことをリーザって呼んでもいいかな」
「かわいらしいあだ名ね。いいわ。アレクセイはどういう意味の名前? 愛称はあるの?」
「アレクセイの意味は守る者とか擁護者、らしい。古代ギリシャ語からきててね。あだ名の定番はアリョーシャだけど、アレクセイって呼ばれるほうが好きだな」
「そのままの意味なのね」
笑顔を見せたエリザベートにアレクセイは何度もキスをした。
エリザベートはアレクセイと一緒に飲んだワイングラスや皿を鼻歌まじりに洗っていた。少佐が帰った気配に気づいてフリーダが部屋から出てきて交替した。
「ありがとう、おやすみ」と言った女主人の顔。なんということだろう。奥様は恋をしているのだわ。あんなにハンサムでおやさしかった旦那様をもう忘れてしまったのだろうか。けれどこれから先、自分たちが安全に不自由なく生きていくためにはあの赤軍将校からの援助と保護が不可欠だった。今日だって引っ越しを手伝っただけではなく、闇市で交換できるタバコも置いて行ってくれた。「給料はいらないから」と言って自分とギゼラは無理に奥様に連れて来てもらった。ここを追い出されたら自分たちには雨露しのぐ屋根すらないのだ。ギゼラは少佐にいい顔をしないけれど、この先奥様がジューコフ少佐の愛人になって、私たちにずっと援助をしてくれたらいいのになどとフリーダは考えていた。ボリシェビキを憎む気持ちとアレクセイに感謝する気持ちとのはざまでフリーダもまた悩んでいた。
8月中旬、森の中の城に英軍総司令官夫妻が引っ越してきた。いつかまたあの家に住める日が来るのだろうかとエリザベートは寂しい思いにかられた。あの城は彼女の夢の城だった。ウィーンの街から白馬の王子様とともに移り住んだ彼女の夢の日々の象徴だったのだ。
だが、現実はうけとめなくてはならなかった。さしあたっては生活費をどうにかしなければならなかった。マルタの父親の経営する百貨店はベルリン市内の何箇所かにあったが、戦争末期は物資の不足で4階建ての一階部分しか営業できないありさまだったのでテナントは空いていた。戦争末期になるとマルタは学業なかばで軍需工場に徴用されていた。徴用はなくなったが大学も再開されないので彼女は家業を手伝っていた。エリザベートとマルタは通りからも直接入れるテナント部分に彼女たちの小さな店を作った。闇市のほうが人は多いだろうが、やはりきちんとした店舗を構えるほうが客層はいいだろうし、闇市で無法者にからまれたり上納金を支払うのも嫌だったからだ。
城にたくさんあった来客用の毛布・シーツ・美しい食器類がよく売れた。食器の中にはリヒテンラーデ家の頭文字と家紋を組み合わせた図柄をモチーフにしたものがあった。これは党のお偉方を招くために特別に作らせたものだった。愛国心からハーケンクロイツを入れたりしなくて本当によかったとエリザベートは思った。店の中には常に連合国マルクとドイツの帝国マルクがごっちゃになっていた。あるいは闇市同様シガレットでも買い物ができることにしていた。もう着る機会のない華やかなドレスや靴も売ってしまった。どうせ流行もサイズも変わってしまうだろう。そのうち親しくなった占領軍将校の細君たちと「ちょっとした物資の横流し」と交換にドイツ語を教えるということもやってみせた。最近では闇市に行ってとんでもない金額を払わないと手に入らないものも多かったので、これはありがたかった。
カウフマンとフリーダには配給を受け取りに行ってもらうことが多かった。ギゼラは子供たちに勉強を教え、テレジアは家の内向きの仕事をした。この4人はローテーションを組んで時々仕事を入れ替えているようだった。
こうして7人の食べる分くらいはなんとかできた。エリザベートは退屈と寂しさを紛らわせるために働いた。アレクセイはパトロールの途中でよく立ち寄ってくれた。そして何か買っては過分な支払いをしてくれた。他に客がいるときは支払いの時に触れ合う手がすべてだったが、たまに誰もいないときなどは会計カウンター越しに軽いキスをするのだ。
ある時、店には客がおらずマルタとエリザベートが品物の配置について考え直しているときにアレクセイが現れた。
「リーザとマールタさんに」
彼は二人をロシア風に呼び、一つずつタバコのカートンを渡した。アメリカのラッキーストライクという銘柄だった。最近は東側の闇市でもこのタバコが一番通貨替わりに使われているので、二人は声を上げて喜んだ。マルタは何か感じ取った様子で、
「私店番してるから、バックヤードでお茶でもお出ししたら?」
と言って、二人を倉庫へ押しやった。
久しぶりに二人だけの空間になったが、カーテンの向こうにはマルタがいるし、階上にはギゼラと子供たちがいるのだ。エリザベートは無言でアレクセイの胸にもたれた。私はこれからどうしたいんだろう、大人の男女がいつまでも手を握ってキスするだけで済まないのは私だって子供じゃないんだ、わかってる。そして彼も私とのことをどう考えているのだろう。私たちの恋愛のゴールに幸福な結末はありえないのだ。もしかするとここで踏みとどまったほうがいいのだろうか。交際禁止令はいつか解除され、二人で道を歩ける日は来るのだろうか。
「リーザ・・・・・・」
ゆっくりと唇を味わうようなキスをされると、何も考えられない。自分の心に嘘はつけない。私はこの人のことが好きなのだ。
カラン、と鐘の音がして新しい客が入ってきた。マルタの知人らしく女性二人の楽しそうな声が聞こえた。
「そうだ、運転手を待たせてるんだ」
アレクセイは客が帰ってから店の表に出ようとしたが、なかなか帰らないので仕方なくエリザベートと一緒にカーテンの向こう側へ出た。客の女性はバックヤードからソ連軍の憲兵が出てきたので驚いた顔をした。それはアンネリーゼだった。
「すみません、在庫を見せてもらってたので」
アレクセイは苦しい言い訳をしながら店を出ようとしたが、女性の持っている紙の束に目を止めた。
「それ、ソビエト赤軍が依頼したチラシではないですか」
「そうです。私は印刷所に勤務していて…先日ソ連さんから仕事をいただきました」
エリザベートもチラシを覗き込んだ。行政機関の再開や新しい警察官募集などの求人が載っていた。イデオロギーのことや武器弾薬の引き渡しなどの告知が多かった以前までのものとは違い、実用的な情報が増えていた。
「道の掲示だけではなく、各商店で配るようSMAD(ソ連軍事行政庁)から命令されています」
「そうですね、よろしくお願いします」
アレクセイはそう言って出て行った。店には3人の女が残された。気まずい空気を最初に破ったのはアンネリーゼだった。
「エリザベート、先日は本当にごめんなさい、ひどいことを言いました。あなたのことがうらやましかったの」
「……」
「さっきの方? 以前言ってた憲兵少佐」
「……そうよ」
「あの人、あなたのことを好きよね。あなたを見る目がとても優しいわ」
そんなに自分たちには親密な空気が出ているのだろうか、とエリザベートは何も言えなかった。だが沈黙は肯定に他ならなかった。
「うらやましい、本当にりっぱな憲兵さん」
チラシを置いてアンネリーゼは行ってしまった。店には二人が残された。
「やっぱあの人とそういうことになっているのね」
「まだなってないわよ!」
「まだ? これからなる気はあるのよね? 反対はしないわよ。私も賄賂もらっているようなもんだから」
マルタはラッキーストライクの箱を持ち上げた。そうだ、これでなんでも買えるのだ。
夫に帰ってきてほしいという思いよりも、アレクセイに会いたいという思いのほうが日増しに強まっていくのをエリザベートは実感していた。彼女は時々、アレクセイが今の生活の重荷を全部引き受けてくれたらと夢想した。残ったライヒスマルクの預貯金は今年の住民税と固定資産税を払ったら大した金額は残らず、家財を売った金で生活するという自転車操業にも疲れ果てていた。こんな状況でも税金の取り立てはしっかり来るし、持ち出した家財はいつか底をつくのだ。無理に値切ってくる客との交渉、どこか不満げな表情をしている4人の使用人、ぐずる子どもたち……「働いたこともないくせにのうのうと暮らして……」 謝ってくれたとはいえ、アンネリーゼに浴びせられた言葉は幾度となくエリザベートの心によみがえった。一度口から出た言葉は二度と戻らないのだ。働いて生活費を稼ぐということはこんなにも疲れることだったのか。そして金は稼いだ端から消えて行ってしまうのだ。
市街地のアパートにいると夜の闇を切り裂くような女性の悲鳴や銃声がしょっちゅう聞こえてきた。ソ連軍兵士による押し込み強盗や強姦はとどまることを知らなかった。この時期一般市民は夜間外出が禁止されていたが、その規定時間よりもずっと早めに仕事を切り上げて、日のあるうちに家に入って厳重に施錠しなければ身の安全は保証されなかった。昼間でも一人では歩けないし、通りからロシア語の騒ぐ声が聞こえてきた時など彼女は怖くてたまらなかった。終戦直後に「赤軍兵士はドイツ人住居に入ってはならない」という命令があるにはあったが、さらに最近「命令以外で部隊を離れることを禁ず」という通達が出された。当たり前のことを何度も何度も命令するというのは、当たり前のことが守れていない軍隊なのだ。いまだにガレキの山の下には多くの死体が埋まっていて、吐き気がするような腐臭がこの街にはただよっていた。水道水はろ過して煮沸しないと飲めないし、子どもたちの好きなハムやチーズも手に入らなかった。アレクセイから届けられた食糧と配給券、ラッキーストライクがなければこの小さなフラットに身をよせる家族の生活はすぐにどん底に落ちてしまっただろう。いや、事実彼女の心の中で今の生活は井戸の底にいるようなものだった。暗く冷たい水の底から見える太陽こそ、アレクセイだった。この混沌とした生活から逃げ出したいと、エリザベートは自分が捕らわれた牢獄からアレクセイが救い出してくれる空想にひたりながら眠りにつくことが多くなった。
先月アレクセイとのひとときを邪魔するかのように現れたイギリス人との交渉は今思い出してもはらわた煮えくりかえり、背筋の寒くなるものだった。交渉ではなく一方的な通告だった。
英軍は司令官の居住する邸宅を探していた。貴族である司令官とその妻は住宅に関していろいろと注文がうるさく、ようやく「静かな森の中の城のような邸宅であまり古びていないものを希望」というめちゃくちゃな条件の住宅をようやく見つけたのだった。この城は築100年を越していたがエリザベートの嫁入りに際してその持参金で大改装されていたので伝統的な古めかしさも残しつつ、最新の設備が入っていた。さらに戦争の被害もなく英軍にとってはうってつけだった。
あの時アレクセイがいてくれて本当によかったとエリザベートは考えた。英軍側からはなぜこんなところに、ベルリンの西の端っこにまだ赤軍の将校がいるのかという態度がありありとでていたので、アレクセイは「少し前まで憲兵事務所として接収していたことと、今も残置物とけが人が残っているので時々連絡があること」を説明した。
「そうですか、それはそれは」
いやみったらしい笑い方をされたが、その後の通告は笑えるものではなかった。英軍による接収と居住者の即時立ち退き………エリザベートは英語で書かれた公文書を手にとり、助けを求めるようにアレクセイを見たが、彼は首を振った。
「逆らうことはできない。そして、これは英軍の統治下のことなので自分には何の力もない」という目をしていた。エリザベートとしてはソ連軍が接収したときのように家主も同居でよいと思い込んでいたので、まさか自分たち家族と使用人が全員追い出されるというのは寝耳に水だったのである。
しかしアレクセイを交えた交渉のおかげで「即時立ち退き」には一週間の猶予をもらえた。どうせ司令官一家は夏のバカンスが終わるまでやってこないのだから。またエリザベートは残った召使たちの継続雇用をイギリス側に求めた。しかしイギリス側から雇用を拒否された。家庭教師は不要、執事も女中もイギリスから連れてくるということだった。しかしエリザベートは自分が外に働きにでようと考えていたので、昼間子供たちを見てくれる信頼できる人物が必要だったので4人とカールを喜んでつれていこうと決心した。カールは何よりエドゥアルトの遊び相手になるのだ。
家具や絵画、カーテンはそのままつけて貸すことになったので、シュミット弁護士を交えて膨大な書類にサインをした。ジークフリートのピアノを置いていくのは残念だったが、宝石とバイオリンは持っていくことにした。かさばらないし、時代が落ち着けば売って生活の足しにできるだろう。なにより豊かで楽しかった時代を象徴するものなのだ。ドレスと客用食器、シーツなどはマルタの実家の店の一角で売ってもらうことにした。物資が不足しているのでこの時期は中古品のリサイクルや物々交換が大流行だった。
一緒に間借りしていたというバーレ一家が出ていき、なんとかいう大佐がいないとはいえ、アパートは狭く、身の回りのものや最低限の衣料品、思い出の品を入れるとすぐにいっぱいになってしまった。ジークフリートの親衛隊の礼服も大切に持っていった。この黒い礼装をエリザベートは一番好きだった。戦争が始まる直前に親衛隊の制服は国防軍と同じフィールドグレイに変更されてしまって残念だった。彼女はこの黒い服を着たジークフリートに恋をしたのだから。
負傷兵と最後の残置物を撤収するという名目でトラックを借りてきてくれたのだが、念のため夜遅くに引っ越しは行われた。まるで夜逃げみたいだわ、と憂鬱な気分になりながらエリザベートは荷物を積み込んだ。
引越しにはナターリアとレオニードも手伝いに来てくれた。アレクセイとエリザベートの間にあった何かしらぎこちない丁重な雰囲気がなくなり、ちょっとした目線や会話が親愛あふれるものになっていることに二人はすぐに気づいた。
「あの二人、うまくいったんじゃないかなあ。少佐も最近すごく機嫌がいいし。書類を提出期限5分遅れた士官がいてさ、以前ならどやしてたのに『いいよいいよ』って受け取ってもらえたらしく、士官のほうがびっくりしてた」
「それはそうよね。二人の間でSieじゃなくてduを使っているもんね。ファーストネームで呼び合っているし……以前は『ジューコフ少佐』とか『フラウ・フォン・リヒテンラーデ』ってまどろっこしかったけど。少佐も戦争中は無愛想で戦闘のことしか興味ないって感じだったし、必要なことしかしゃべらない人だったけど、今日はちょっとしたことでも笑ったりしているし・・・この間なんて将官連中で冗談言いながら笑いあっているのを見かけてびっくりしたわ」
※訳注:ドイツ語の二人称には二種類あり、Sie(他人向けの敬称:あなた)とdu(家族友人向けの親称:お前、君)を使い分ける
Kommen Sie aus Japan? 日本から来られたのですか?
Kommst du aus Japan? 日本から来たのかい?
ナターリアとレオニードはトラックの運転席でそんな会話をしていた。アレクセイはリヒテンラーデ家の2人や使用人たちとともにバンを運転していた。
「この3ヶ月間のイライラが解消されたよ、オレ。やっと少佐は気持ち伝えたんだ。あの奥さんの方もまんざらでもなかったんだろう」
「でも、あの奥さんははご主人を待っているんじゃないの」
「戦争が終わってもう3ヶ月だ。アフリカ戦線に行ってたならともかく、ベルリンにいたんだろう? しかも軍人だったわけじゃない。うちの捕虜収容所も少佐に言われてオレがくまなく探したし……もう生きちゃいないよ」
「遺体が見つからないし、誰も死んだところを見たわけでもないし、心の決着がつかないのよ。きっと」
3ヶ月くらいで諦めて他の男に心を移すというのもどうか、とナターリアは思っていた。
「セルゲイ・ズボフスキー曹長……覚えているか?5月に街で……」
「ああ、あの人のこと探して連れて来いって少佐に頼まれたのよね、あなた。やっぱりあのきれいな金髪の女の子のことだったの?」
エリザベートはどうしてもアリシアのことが納得いかず、その後何度もアレクセイに調査を頼んだのであった。
「絶対に無理やり連れまわしているって奥様が言うもんだからね……戦乱のどさくさで強姦が多いものだから何度か禁止令が出ただろう? それなのに現場責任者の曹長がそんなことしていたらまずいもんな」
「ああ……」
ドイツ軍の捕虜収容所から解放されたソ連軍兵士は正規軍に編入されてドイツ領土へなだれこんだが、捕虜収容所での悲惨な待遇からドイツ国民への怒りとうらみはすさまじく、ドイツ領での蛮行はすさまじいものがあった。司令官からいくら通達があっても、将校が止めようとしても酔っ払った兵士たちを抑えることは困難を極めた。ジューコフ少佐が被害者たちの訴えを聞いて回ったり、もっと厳しい軍規粛正通達を出すよう司令官に対して求めているのを、ナターリアは何度も目撃したことがあった。自分とは普通に話をする兵士たちは100人がかりで現地人に襲い掛かり、ひどい場合は集団的な性的暴行の後乳房や手足を切って虐殺していた。4歳の女の子、80代の女性、妊娠中の女性・・・・・・東プロイセンが一番ひどかった。しかしポーランド領でも同じだった。いったいポーランド人がソ連に何をしたというのだろう。ナターリアは正気を保つのに精いっぱいだった冬場の記憶を消したかった。
「あのアリシアって子は兵卒の間では有名な美人だった。ズボフスキーの隊が到着するまでに相当ひどい目にあっていたと思う。ところがヤツの隊が到着したとたん、あの街区ではぴたりと強姦や略奪がなくなったんだ」
「どうして?」
「曹長はアリシアに頼まれてみんなに命令したんだ。まあ、セルゲイ自体は強姦とか買春とかしなくても女のほうからよってくるくらいの男前だ。けど、アリシアの美しさには目がくらんでしまったらしい。この女をどうしても守ってやりたいって思ったって本人の口から聞いたよ。知り合ってすぐにそういう契約みたいなことが成立したらしい」
「なにそれ、売春のオンリー契約みたい」
ナターリアの言葉には棘があった。
「まあまあ。アリシアは戦争末期に家族を徴兵やら空襲で失ってしまって一人ぼっちだった。焼け残った家で一緒に暮らそうって言い出したのは彼女のほうだ。今では普通の夫婦みたいに暮らしているって近所の評判だよ」
「占領地妻ってやつね」
「いちいちそうつっかかりなさんなよ、ナターリア。ズボフスキーは独身だから、もしかすると本当に結婚するかもしれないよ」
絶対ありえない、とナターリアはあきれ返った。セルゲイがアリシアに惚れこんでいてもアリシアのほうはそうではないだろう。めちゃくちゃな集団レイプから守ってくれて、食糧もくれて、他の連中より少々マシで利便性があるから一緒にいるにすぎない。
「そうそう、面白い話があってさ。あの日やつは風邪引いて寝てたらしいんだ。 あの前の日にアリシアをめぐって川べりで他の兵士と殴り合いの決闘をしたらしいんだ。いつの間にか二人とも川の中に入ってて、あくる日は二人してダウンさ。あの辺りの連中はみんな知ってる」
「ふうん……風邪ひいて寝てる人が女の子をベッドに引っ張り込むんだ」
「少佐は尋問のあとズボフスキーとビアホールで飲んでた。多分そこでヤツから言われたんだ……少佐殿、女を自分のものにしようと思ったら、ハッキリ態度で示さないと何も進みませんよ……」
レオニードは笑い転げて言葉にならなくなった。ナターリアはあわててハンドルを支えた。自分の国が負けていたらアリシアの運命もリヒテンラーデ夫人の運命も自分の運命になったかもしれない、と彼女は思った。しかし交際禁止令のせいで私たちがこうして夜中に引っ越しを手伝っているのに、セルゲイはなぜ堂々と一緒に暮らせているんだろう、とナターリアは疑問に思った。
新居が一通り片付くと、ナターリアとレオニードは帰り、フリーダとギゼラは子供たちを寝かしつけるために子供部屋にこもっていた。カウフマン夫妻も大佐が使っていた寝室に入ってしまった。エリザベートは台所兼居間として作られた部屋に置かれたテーブルでアレクセイと二人でワインを飲んでいた。彼は何度も部屋を見渡した。
「本当に……もっと庭のあるような広い家だって何とかしてあげたのに。子供のためには庭があるほうがいいよ」
7人で住むには狭すぎるし、自分が訪ねて来てもあまり居心地のいいものではない、という意味だろう。召使がすぐ傍の部屋にいるのでは落ち着いて話もできない。しかし一応ここは東側であり、ソ連軍占領地域にあるのでアレクセイが満足しているようなのも確かだった。彼も自由に行き来できる街なのだ。
「ここもいつまでいられるかわからないわ・・・そのうち新しい家も建つだろうし、お金が貯まったら引っ越すわ」
エリザベートは楽観的に言った。悲観的に考えても何も始まらないのだ。マルタの店に出した商品はよく売れていて当面の日銭には不自由なさそうだった。ソ連軍が接収した家を一つくらいアレクセイならどうにかできただろう。しかしそれは同じドイツ人家族を追い出し、路頭に迷わせることを意味した。エリザベートはそれだけは避けたかった。
「仕事は見つかりそう?」
エリザベートは首を振った。
「街には公職追放されたお役人がうじゃうじゃいるの。私なんか親衛隊中佐夫人でナチスの党員で婦人部の役員もしたし女子青年同盟の教師をしたこともあるのよ。職業経歴もなければ役に立つ資格も持っていないし……当分はマルタの店を手伝わせてもらうつもりなの。今は販売を委託しているけど来週からは自分でも店に立つ予定よ。私働いたことないから、結構楽しみなの」
この一ヶ月間はアレクセイと一緒にいることが本当に多かった。イギリス軍との交渉、新しい家の修理。彼は何でも付き合ってくれた。あの日のキスとそのあとのことを思い出すとエリザベートは体が震え、熱くなった。何度も彼のキスを思い出した。唇から頬そして首筋へと移って行った彼の唇と彼女の体を愛撫した彼の手を思い出し、顔を赤らめた。しかしアレクセイはそのことを全く話題に出さないし、彼女に触れてもこなかった。エリザベートは「君を愛している」というアレクセイの言葉をまた聞きたかった。もう一度彼の広い胸に抱きしめられたかった。アレクセイが何もしてこないのは、自分は何か失態を演じて嫌われてしまったせいだろうかとなどと考えたりもした。そしてこれではまるで自分が彼に片思いしているみたいだと呆れてしまった。
アレクセイは帰り支度をはじめ、帽子をかぶった。
「夏休みも取らずに働いているのに、また明日からも書類の山と格闘すると思うとぞっとするよ」
引越しも終わったし、英軍との交渉も終わってしまった。もうアレクセイに会う「用」がなくなってしまった。
「じゃ、おやすみ、エリザベート」
アレクセイは右手で帽子を少し持ち上げて挨拶した。やはり彼は今日も自分にキスをする気はないのだろうか。エリザベートは彼の制服の袖をちょっとつかんだ。
「あの、次はいつ会えるの、アレクセイ」
顔が熱い。自分でも顔が赤らんでいるのがわかった。目を合わせることすらできない。何でこんなに照れくさいのだろう。エリザベートがようやく顔を上げると、アレクセイが驚いた顔をしてのぞきこんでいた。
「忙しくて、約束はできないけど……」
「そう……」
彼女はがっかりして目をふせた。今の自分はこの男の言葉ひとつで一喜一憂してしまうのだ。次の約束がないと不安でたまらないほどに。彼女は自分のほうから彼の司令部や家に電話をかける勇気は持ち合わせていなかった。
「でもこれからは家も近くなったし、日中のパトロールがある日は店に寄るよ。店員と客で話すくらい、交際禁止令が出ていてもできるだろうし」
その言葉にエリザベートは微笑んだ。するとアレクセイは彼女を引き寄せて抱きしめた。彼の制服の胸につけられた勲章が頬にあたって痛かったが、男の腕の中でエリザベートは幸福を味わった。
「本当は毎日でも会いたいと思っているんだよ、エリザベート」
「ありがとう。うれしい」
「愛しいリーザ・・・」
「え?」
「ロシア語でもエリザベータっていう似た名前があって、愛称はリーザっていうんだ。君のことをリーザって呼んでもいいかな」
「かわいらしいあだ名ね。いいわ。アレクセイはどういう意味の名前? 愛称はあるの?」
「アレクセイの意味は守る者とか擁護者、らしい。古代ギリシャ語からきててね。あだ名の定番はアリョーシャだけど、アレクセイって呼ばれるほうが好きだな」
「そのままの意味なのね」
笑顔を見せたエリザベートにアレクセイは何度もキスをした。
エリザベートはアレクセイと一緒に飲んだワイングラスや皿を鼻歌まじりに洗っていた。少佐が帰った気配に気づいてフリーダが部屋から出てきて交替した。
「ありがとう、おやすみ」と言った女主人の顔。なんということだろう。奥様は恋をしているのだわ。あんなにハンサムでおやさしかった旦那様をもう忘れてしまったのだろうか。けれどこれから先、自分たちが安全に不自由なく生きていくためにはあの赤軍将校からの援助と保護が不可欠だった。今日だって引っ越しを手伝っただけではなく、闇市で交換できるタバコも置いて行ってくれた。「給料はいらないから」と言って自分とギゼラは無理に奥様に連れて来てもらった。ここを追い出されたら自分たちには雨露しのぐ屋根すらないのだ。ギゼラは少佐にいい顔をしないけれど、この先奥様がジューコフ少佐の愛人になって、私たちにずっと援助をしてくれたらいいのになどとフリーダは考えていた。ボリシェビキを憎む気持ちとアレクセイに感謝する気持ちとのはざまでフリーダもまた悩んでいた。
8月中旬、森の中の城に英軍総司令官夫妻が引っ越してきた。いつかまたあの家に住める日が来るのだろうかとエリザベートは寂しい思いにかられた。あの城は彼女の夢の城だった。ウィーンの街から白馬の王子様とともに移り住んだ彼女の夢の日々の象徴だったのだ。
だが、現実はうけとめなくてはならなかった。さしあたっては生活費をどうにかしなければならなかった。マルタの父親の経営する百貨店はベルリン市内の何箇所かにあったが、戦争末期は物資の不足で4階建ての一階部分しか営業できないありさまだったのでテナントは空いていた。戦争末期になるとマルタは学業なかばで軍需工場に徴用されていた。徴用はなくなったが大学も再開されないので彼女は家業を手伝っていた。エリザベートとマルタは通りからも直接入れるテナント部分に彼女たちの小さな店を作った。闇市のほうが人は多いだろうが、やはりきちんとした店舗を構えるほうが客層はいいだろうし、闇市で無法者にからまれたり上納金を支払うのも嫌だったからだ。
城にたくさんあった来客用の毛布・シーツ・美しい食器類がよく売れた。食器の中にはリヒテンラーデ家の頭文字と家紋を組み合わせた図柄をモチーフにしたものがあった。これは党のお偉方を招くために特別に作らせたものだった。愛国心からハーケンクロイツを入れたりしなくて本当によかったとエリザベートは思った。店の中には常に連合国マルクとドイツの帝国マルクがごっちゃになっていた。あるいは闇市同様シガレットでも買い物ができることにしていた。もう着る機会のない華やかなドレスや靴も売ってしまった。どうせ流行もサイズも変わってしまうだろう。そのうち親しくなった占領軍将校の細君たちと「ちょっとした物資の横流し」と交換にドイツ語を教えるということもやってみせた。最近では闇市に行ってとんでもない金額を払わないと手に入らないものも多かったので、これはありがたかった。
カウフマンとフリーダには配給を受け取りに行ってもらうことが多かった。ギゼラは子供たちに勉強を教え、テレジアは家の内向きの仕事をした。この4人はローテーションを組んで時々仕事を入れ替えているようだった。
こうして7人の食べる分くらいはなんとかできた。エリザベートは退屈と寂しさを紛らわせるために働いた。アレクセイはパトロールの途中でよく立ち寄ってくれた。そして何か買っては過分な支払いをしてくれた。他に客がいるときは支払いの時に触れ合う手がすべてだったが、たまに誰もいないときなどは会計カウンター越しに軽いキスをするのだ。
ある時、店には客がおらずマルタとエリザベートが品物の配置について考え直しているときにアレクセイが現れた。
「リーザとマールタさんに」
彼は二人をロシア風に呼び、一つずつタバコのカートンを渡した。アメリカのラッキーストライクという銘柄だった。最近は東側の闇市でもこのタバコが一番通貨替わりに使われているので、二人は声を上げて喜んだ。マルタは何か感じ取った様子で、
「私店番してるから、バックヤードでお茶でもお出ししたら?」
と言って、二人を倉庫へ押しやった。
久しぶりに二人だけの空間になったが、カーテンの向こうにはマルタがいるし、階上にはギゼラと子供たちがいるのだ。エリザベートは無言でアレクセイの胸にもたれた。私はこれからどうしたいんだろう、大人の男女がいつまでも手を握ってキスするだけで済まないのは私だって子供じゃないんだ、わかってる。そして彼も私とのことをどう考えているのだろう。私たちの恋愛のゴールに幸福な結末はありえないのだ。もしかするとここで踏みとどまったほうがいいのだろうか。交際禁止令はいつか解除され、二人で道を歩ける日は来るのだろうか。
「リーザ・・・・・・」
ゆっくりと唇を味わうようなキスをされると、何も考えられない。自分の心に嘘はつけない。私はこの人のことが好きなのだ。
カラン、と鐘の音がして新しい客が入ってきた。マルタの知人らしく女性二人の楽しそうな声が聞こえた。
「そうだ、運転手を待たせてるんだ」
アレクセイは客が帰ってから店の表に出ようとしたが、なかなか帰らないので仕方なくエリザベートと一緒にカーテンの向こう側へ出た。客の女性はバックヤードからソ連軍の憲兵が出てきたので驚いた顔をした。それはアンネリーゼだった。
「すみません、在庫を見せてもらってたので」
アレクセイは苦しい言い訳をしながら店を出ようとしたが、女性の持っている紙の束に目を止めた。
「それ、ソビエト赤軍が依頼したチラシではないですか」
「そうです。私は印刷所に勤務していて…先日ソ連さんから仕事をいただきました」
エリザベートもチラシを覗き込んだ。行政機関の再開や新しい警察官募集などの求人が載っていた。イデオロギーのことや武器弾薬の引き渡しなどの告知が多かった以前までのものとは違い、実用的な情報が増えていた。
「道の掲示だけではなく、各商店で配るようSMAD(ソ連軍事行政庁)から命令されています」
「そうですね、よろしくお願いします」
アレクセイはそう言って出て行った。店には3人の女が残された。気まずい空気を最初に破ったのはアンネリーゼだった。
「エリザベート、先日は本当にごめんなさい、ひどいことを言いました。あなたのことがうらやましかったの」
「……」
「さっきの方? 以前言ってた憲兵少佐」
「……そうよ」
「あの人、あなたのことを好きよね。あなたを見る目がとても優しいわ」
そんなに自分たちには親密な空気が出ているのだろうか、とエリザベートは何も言えなかった。だが沈黙は肯定に他ならなかった。
「うらやましい、本当にりっぱな憲兵さん」
チラシを置いてアンネリーゼは行ってしまった。店には二人が残された。
「やっぱあの人とそういうことになっているのね」
「まだなってないわよ!」
「まだ? これからなる気はあるのよね? 反対はしないわよ。私も賄賂もらっているようなもんだから」
マルタはラッキーストライクの箱を持ち上げた。そうだ、これでなんでも買えるのだ。
夫に帰ってきてほしいという思いよりも、アレクセイに会いたいという思いのほうが日増しに強まっていくのをエリザベートは実感していた。彼女は時々、アレクセイが今の生活の重荷を全部引き受けてくれたらと夢想した。残ったライヒスマルクの預貯金は今年の住民税と固定資産税を払ったら大した金額は残らず、家財を売った金で生活するという自転車操業にも疲れ果てていた。こんな状況でも税金の取り立てはしっかり来るし、持ち出した家財はいつか底をつくのだ。無理に値切ってくる客との交渉、どこか不満げな表情をしている4人の使用人、ぐずる子どもたち……「働いたこともないくせにのうのうと暮らして……」 謝ってくれたとはいえ、アンネリーゼに浴びせられた言葉は幾度となくエリザベートの心によみがえった。一度口から出た言葉は二度と戻らないのだ。働いて生活費を稼ぐということはこんなにも疲れることだったのか。そして金は稼いだ端から消えて行ってしまうのだ。
市街地のアパートにいると夜の闇を切り裂くような女性の悲鳴や銃声がしょっちゅう聞こえてきた。ソ連軍兵士による押し込み強盗や強姦はとどまることを知らなかった。この時期一般市民は夜間外出が禁止されていたが、その規定時間よりもずっと早めに仕事を切り上げて、日のあるうちに家に入って厳重に施錠しなければ身の安全は保証されなかった。昼間でも一人では歩けないし、通りからロシア語の騒ぐ声が聞こえてきた時など彼女は怖くてたまらなかった。終戦直後に「赤軍兵士はドイツ人住居に入ってはならない」という命令があるにはあったが、さらに最近「命令以外で部隊を離れることを禁ず」という通達が出された。当たり前のことを何度も何度も命令するというのは、当たり前のことが守れていない軍隊なのだ。いまだにガレキの山の下には多くの死体が埋まっていて、吐き気がするような腐臭がこの街にはただよっていた。水道水はろ過して煮沸しないと飲めないし、子どもたちの好きなハムやチーズも手に入らなかった。アレクセイから届けられた食糧と配給券、ラッキーストライクがなければこの小さなフラットに身をよせる家族の生活はすぐにどん底に落ちてしまっただろう。いや、事実彼女の心の中で今の生活は井戸の底にいるようなものだった。暗く冷たい水の底から見える太陽こそ、アレクセイだった。この混沌とした生活から逃げ出したいと、エリザベートは自分が捕らわれた牢獄からアレクセイが救い出してくれる空想にひたりながら眠りにつくことが多くなった。
