四月。
春とは名ばかりで、まだ冬の冷気が息の奥に残っていた。

桜陵高校の正門には新しい制服の群れが押し寄せ、笑い声とカメラのシャッターが溶け合っている。

1学年10クラス、進学校としては異様に大きいこの学校。

その中心を、黒いフードを被った一人の男子が歩いていた。

黒瀬蒼真。
 
ネクタイはゆるく、第一ボタンは外したまま。
黒髪はセンターで分けられ光を反射して鈍く揺れる。
 
長い脚で階段を上がる姿は、どこか怠そうで、それでいて視線を奪う。
 制服の上に羽織った黒パーカー。ピアスが耳で鈍く光り、細い首筋に金属の冷たさを落としていた。

「おい黒瀬、また女から手紙もらってんじゃん」

下駄箱の前でクラスメイトがニヤつきながら言った。
 
蒼真はちらりと視線を向け、無言でその手紙を丸めてゴミ箱へ放る。

「……いらねえよ、そういうの」

「うわ、もったいな〜。どんな子かくらい見ろって!」

「興味ねぇ」

 軽く笑いながらも、蒼真の声には温度がなかった。
 
人の想いなんて、どうせ軽い。

 あの日から、誰の言葉も信じていない。

 
始業式。体育館の中は人であふれ、天井の照明が眩しく光る。

 生徒たちのざわめきの中、壇上では校長が眠気を誘う話をしていた。

 蒼真は後ろの壁にもたれ、片手でイヤホンをいじりながらぼんやりと天井を見上げる。

(……早く終われよ)

 人混みの熱気。ざわざわと揺れる声。

 そのすべてが、蒼真には遠い。
 
どれだけ笑っても、どれだけ周りに囲まれても、胸の奥には穴が空いたままだ。
 
誰かがそこに手を伸ばしてくれることなんて、もうないと思っていた。

 その時。

 マイクが小さくノイズを立て、聞き慣れない、澄んだ声が体育館に響いた。

「――新任の生徒会長、四宮夜蔵です」

 瞬間、空気が変わった。
 
ざわついていた生徒たちの視線が、一斉に壇上の少女に集まる。

 夜蔵は背筋を伸ばし、凛とした佇まいでマイクの前に立っていた。

 黒に近い灰色の髪を後ろでひとつにまとめ、制服の襟元まできっちり留めている。

 無駄な飾りも、媚びもない。
 
ただ、目だけが真っすぐで、何かを射抜くように強い。

 清廉で、冷たい。

 まるで冬そのものを人の形にしたような少女だった。

「……学業と規律を重んじ、互いに信頼し合える学校を――」

 その声を聞いた瞬間、蒼真の心臓が跳ねた。
 
頭の奥が、ざらついた映像で満たされる。

 ――真冬の路地裏。
 凍える空気。
 小さな手が、泣きじゃくる自分の前に差し出された。
 パンと、マフラーと、あたたかい声。

「……寒いでしょ」

 たったそれだけの言葉。
 でも、それが世界のすべてを変えた。

 蒼真の唇が、わずかに震える。
 頭では“まさか”と思っても、心が先に確信していた。

(……あの時の、あの子だ)

 五年前。
 初めて人の優しさに触れた、あの瞬間の記憶。
 その光が、目の前で息をしている。

 名前を聞いたとき、胸の奥がきしんだ。

「……四宮、夜蔵……」

 その名を呟いた瞬間、心の奥で何かがゆっくりと、確実に歪んでいく。
 あの日失ったものを、彼女が全部持っている気がした。
 温もりも、希望も、人を信じる力も。

(やっと、見つけた)

 無表情のまま、唇だけが笑う。
 周囲の拍手の中で、蒼真だけが静かに息を吸った。

 彼の中で、凍っていた時間が再び動き出す。
 そして彼はまだ知らない。
 壇上の彼女が——その視線の意味に気づくこともなく、
 “チャラ男が一番嫌い”な生徒会長であることを。