たあくんが居なくなってから、心にぽっかりと穴が空いてしまった。どこにでも転がっているようなありふれた表現だけど、何を注いでも満たされる事ことがない、底が抜けているコップのような、そんな感覚に似ている。

 四月の、あと一週間ほどで桜が開花しそうな頃。まるで季節の移り変わりを惜しむように、鉛色の空から名残雪が落ちて来た、妙に冷え込んだ夕方だった。あの日から、私はセミの抜け殻のようになってしまった。

 早番終わりで結月(ゆづき)月紬(つむぎ)を保育園に迎えに行き、スーパーでちゃちゃっと買い物を済ませてアパートに帰った。駐車場に車を停めて、でも、なんだか嫌な予感がして、ふたりを車の後部座席に残したまま、玄関のドアを開けた。

 嫌な予感というものはどうして高確率で的中してしまうのだろう。いつもとは明らかに何かが違っていた。人の生きている気配がまるで感じられなかった。ひんやりと冷たくて空っぽの空間に感じた。シン、と音がした。物音ひとつないのに、シンと音がしたのだ。

 リビングに入った瞬間に、嫌な予感は確信に変わった。開け放たれた寝室のドアを見つけて、力が抜けて行った。

 この一年、いつかこんな日が来るかもしれないと、少なからず思っていたのかもしれない。だから、妙に冷静だったのだろうか。そんな自分が恐ろしかった。

 開け放たれたドアから寝室を覗くと、朝と同じ服装のたあくんが吊り下がっていた。黒いNORTH FACEのトレーナーにジーンズ姿で、クローゼットのハンガーポールに延長コードを括り付けて首を吊っていた。

 その光景が視界に飛び込んできた時、助からないのはもう一目瞭然で、だから、取り乱したりとかそういうのも一切なかった。こんな事を言うと、冷たい妻だ、とか、本当に愛していたのか、だとか。非難されるかもしれないし後ろ指を差されるかもしれないけれど、自分がいちばん信じられなかった。それくらい、私は冷静だった。

「たあくん」

 ひとまず、だらりとぶら下がった左手の甲に触れてみたけれど、まるで氷のように冷たくて、やっぱりもう手遅れなんだと唐突に理解した。

 とうとうこんな日が来てしまった。三歳と二歳の愛娘を残してなにしてんのさ。漠然とそう思った。たあくんの死はそんな感じだった。

 もう救急車ではないことは明らかだった。私は迷わずに110番した。

「夫が……自殺をしたと、思います」

 結月と月紬を、この空間に入れるわけにはいかなかった。大好きなパパのこんな変わり果てた姿を、まだ三歳と二歳の子供たちに見せられる母親なんているだろうか。

「ゆづ、つむ。今日は、じぃじとばぁばのお家にお泊りして」

 とにかく、警察が来て物々しくなる前にと思い、実家の母に連絡し、ふたりを迎えに来てもらった。

「えー? なんで? どっして?」

 二歳の月紬はおしゃまで活発で口達者。ちびまる子ちゃんのようなおかっぱ頭に、大粒の目。

「ねぇねとつむ、ばぁばんち行くの? なんで? パパは?」

 好奇心旺盛で、人見知りも全くしない。

「どっしても。ゆづ、つむのこと頼むね」

 結月は「うん」とうなずいて、ツインテールの髪の毛先をぴょんと弾ませた。そして、なんでなんで星人の月紬の手を取り、ばぁばの軽自動にすんなりと乗り込んだ。

 たあくんにそっくり。姉の結月は生まれた時から聞き分けの良い子だった。その場その時の空気を読むのが上手で、大人しい子。オムツを替えて欲しい時、お腹が空いた時、具合が悪い時、それ以外は泣くこともなくて本当に手の掛からない赤ちゃんだった。

 母の車が遠ざかって行くのを見送りながら、たあくんの死をあの子たちにどう説明しようかと悩んだ。自殺した。そう言ったところで三歳と二歳の幼い子たちが理解し受け止めることなんてできっこない。仕事が忙しくなった、とか、しばらく会えない、とか、もう会えなくなっちゃったんだよ、だとか。色々考えてみるけれど、どれもきっと通用しない。ひとりはなんでなんで星人だし、もうひとりは妙に勘が鋭い。

 そうこうしているうちに警察が到着し、いよいよ目まぐるしくなった。悲しみに暮れ泣いている暇なんて私には無かった。と言えば嘘になる。泣く暇はあったと思う。だけど、泣くという行為自体がまるでその時系列からポンと弾かれたように、予定に組み込まれていなかった。そんな感じだった。

 直ぐに現場検証と検視が始まり、第一発見者である私は事情聴取を受けた。

「奥さん、大丈夫ですか? 辛くなったり、体調が芳しくない時は無理せず、直ぐに言ってください」

 と警察の方たちは気遣ってくれたけれど、訊かれた事にやけに淡々とした口調で、そこにマニュアルや台本が用意されているかのように私が答えるものだから、彼らは呆気に取られているようだった。

「ご主人が亡くなる前に会ったのはいつですか?」

「今朝です。出勤前に。七時前でした」

 今日は早番勤務で時間がなかったから、トーストにスクランブルエッグとウインナー、インスタントのコーンスープ。今朝も4人で食べた。

「つむ、早く食べちゃってよ。ママ、洗い物してしまいたいのですけど」

「あ、いいったよ。早番だべ? 俺が洗っとくから」

「まじ? 最っ高助かる! ありがと、たあくん」

 最近は体調も安定しているから何も変わった様子は無かったのに。

「いつもとは違う様子などは見られませんでしたか?」

「いえ、特に。最近は落ち着いていましたし。あとは、そうですね……」

 淡々とした口調で続けようとした私の話を遮るように警察が食い付いた。

「落ち着いていたっていうと、ご主人は何か持病があったんですかね」

「はい。パニック障害とうつ病で。ここ一年ほど、自宅療養していました」

「なるほど。ご主人の職業は」

 警察はおそらく、たあくんが人命救助に携わる職業に就いていたことに気付いていたのだと思う。

「消防士でした」

 たあくんは亡くなる時、おそらく、出来るだけ処理に携わる人の手を煩わせないようにしたのだと思う。そして、第一発見者が私であることも、たあくんは予想して事に至ったのだ。

 ハンガーパイプにぶら下がるたあくんの足元から広範囲に敷かれていたのは、何枚もの切り開かれたゴミ袋。糞尿や体液が排出されて汚れてしまわないようにしたのだろうと警察は言っていた。でも、そんなものは出ていないし、驚くほど綺麗な遺体だった。

 警察による検視の結果、事件性は無く自殺と断定された。まるで奥さんの帰宅時間を逆算でもしたかのようなタイミングだねと警察がひそひそと小声で話しているのを、私はおそらく無表情で聞いていたと思う。

 死後硬直の状態からして死亡推定時刻はついさっき、私が発見する一時間から一時間半前とのことだった。死体検案書が交付される頃には、たあくんの両親も駆けつけてくれた。

千翠(ちあき)ちゃん、ごめんね。ごめんね」

 お義母さんもお義父さんも私にただただ平謝りして、おいおい泣いていた。泣けるものなら、私の方が泣きたかった。でも、私はこれっぽっちも涙なんて出て来なくて、不思議と悲しくもなかった。

 これからはあのふたりをひとりで育てなければいけない、夜勤もできなくなる、職場に相談するか転職も考えなきゃいけないな、そんな事を考えて思考をフル回転させていたくらいだ。

 とにかく実感というものが全くなかった。

 葬儀屋さんが来てエンバーミングをしてもらい、棺に入れられたたあくんは、今にも目をぱくっと開けて「おはよう、何時?」と聞いて来そうなほどだった。信じられなかった。たあくんが安置先の葬儀ホールに運ばれて行っても、葬儀プランの打ち合わせをしていても、死亡届を提出する時も、お通夜の時も。全く実感というものがなかった。私はそういう感情が欠落しているのかもしれないとさえ思った。

 お通夜の時、父親の死というものを理解できていない月紬はいつもと何も変わらない様子でキャッキャッとはしゃぎ、私の母親に別室へ連れ出されていたけど、結月は三歳ながらに理解していたようだった。もう大好きなパパに抱きしめてもらうことができなくなったのだ、と。

 葬儀ホールの祭壇の遺影写真をじっと見つめて、下唇をきゅっと噛み締める結月の姿が気の毒で、とてつもなく印象的だった。だから、この時はまだ感情の欠落はしていなかったのだと思う。

 きっと、あの瞬間に、私の感情は欠落したのだと思う。

 お通夜の翌日は朝から良く晴れて、ぽかぽかと温かい一日だった。町中のあちこちで桜が満開で、青空に薄ピンクが良く映えていた。

「御出棺です」

 プァン、とホーンが春の空に吸い込まれて行った時、私は霊柩車の助手席に座り位牌を胸に抱いていた。まだ涙は出なかった。火葬場に到着してからもそれは一切変わらなかった。でも、その時は突如としてやって来た。

「それでは喪主様、点火スイッチを押してください」

 火葬場スタッフから促されて、たあくんが閉じ込められた火葬炉の横に立つ。私の左手を握ってくれていたのは、小さな唇を真一文字に結ぶ結月だった。結月は右手で私の手を、左手で月紬の右手を握っていた。少しだけ心強くて、救われた気がした。

 右手の人さし指を点火スイッチボタンに伸ばす。でも、なかなか押す決断ができなかった。下あごのあたりから何かが込み上げた。よく分からない行き場のない感情に困惑した。スイッチに触れる指先がカタカタと震えた。押せない。触れることはできるのに、押すことができない。

 しっかりしなければ。私は喪主なのだから、押さえなければと思うのに、涙が込み上げて、吐息のような声が勝手に漏れて止まらなかった。

「……っは……っ」

 涙と一緒に、たあくんと出逢って一緒に歩んで来た時間が一気に全身を駆け巡った。こんな事になってしまう前に、たあくんからのSOSにもっと電波を張り巡らせていれば良かったと後悔した。でも、押さえなければならなかった。

 軽いものだった。押したスイッチボタンはあまりにも軽くて、人間ひとりの命がこんな軽いスイッチ一つで燃えてしまうと思うと、滑稽だった。

 スイッチを押してみたら、私の体内のどこかのスイッチも押されたようだった。冷たい床に這いつくばるように座り込み、嗚咽を洩らした。息ができないくらい苦しくて苦しくて、涙が止まらなかった。変わり果てたたあくんを発見したあの瞬間からずっと我慢していたものが、涙と嗚咽と一緒に全部出てしまった。

 立ち上がることも出来ずに泣き崩れた私の頭を「よしよし」と撫でていたのは結月だった。結月は絶対に泣かなかった。小さなその手で、私の頭や背中をずっと撫でていた。

 その時からだと思う。あれほどまでに可愛くて愛おしくて仕方なかった結月と月紬のことが、可愛いと思えなくなってしまったのは。大切な我が子に変わりはないのに、どうしてか愛おしいと思えなくなってしまったのだ。