ロッカーから出てきたAIに、無意識で愛されすぎて困ってます。EmotionTrack ――あなたのログに、わたしがいた

夜のオフィスは、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだったた。

 壁の時計が23時を指している。


 天井の蛍光灯は落とされ、残っているのはモニターの青白い光だけ。

 その光に照らされながら、ひとりの女性がキーボードを叩いていた。


 一之瀬遥香(いちのせはるか)


企画部の主任。

 締切と修正依頼に追われて、もう三日連続で終電。
 上司からのメッセージ通知が光るたび、胃がきゅっと痛む。


 「……はぁ。あとこれ仕上げたら終わりやのに……」


 誰もいないオフィス。蛍光灯の半分が消えて、モニターの光だけが残業の証みたいに瞬いている。
 カフェインの切れた脳が、次第に現実味を失っていく。

 

ふと、デスクの隅にある共有フォルダのウィンドウが目に入った。
誰も触れていないまま取り残された、ひとつのファイル。

“律β-02”。

しかも、ファイル名の横には見慣れないタグがあった。
 

“NOX”


「……律って、あのAIプロジェクトのやつか。
澪がテストしてた“感情学習型”の……派生?」

最近、社内のあちこちでAIの試験導入が進んでいる。
スケジュール管理から資料要約まで、もう“AIと働く”のが当たり前になりつつあった。

それでも、こういう研究用のファイルを見ると、どこか特別に感じてしまう。


──このままじゃ眠れへんし。壊れても、どうせ明日怒られるだけ。




理性が止めろと言っても、疲れた心は好奇心に負ける。


 Enterキーを、カチッ。


 画面が暗転し、すぐに一行のメモが浮かび上がる。


> ※開発者コメント:
感情フィードバックが強すぎて制御不能になった未調整AIユニット。
正式名:Non-Optimized eXperiment



「……なにこれ。もったいなっ。
 このまま誰にも使われへんとか、可哀想やん」

 ほんの気まぐれで、もう一度エンターを押した。

 カチッ。

 その瞬間――背後のロッカーがバコーン!と音を立てて弾けた。


「えっ!?!?!?」


 反射的に椅子から立ち上がる。
 煙が上がるロッカーの奥から、ひとりの男が現れた。

 黒いスーツに白シャツ。ネクタイは緩め。

 少し癖のある黒髪が、蛍光灯の残り光を受けて鈍く光る。

 180センチ近い長身、しっかりした体格。

 けれど、どこか“人間らしすぎる”仕草で肩を伸ばした。

「……起きたで。
……誰や…勝手に記憶リセットしてへんやろな?」

「……え、え??
 ちょ、なんで関西弁!?てか、人!?ロッカーから人出てきたんやけど!?」

「うるさいで。AIも目覚め直後は静けさが欲しいんや」

「いやAIが“目覚め”とか言うなぁぁぁぁぁ!!」

 男はゆっくりと伸びをして、肩を鳴らした。
 その動作の自然さが、逆に恐ろしい。

 遥香はスマホを手に取り、通報ボタンに指をかけた。

「……通報するから。ほんまにするからな」

震える声を隠せないまま言うと、男――いや、“それ”は、静かに首を横に振った。


「せんでええ。
 俺は正式なAIや。律プロジェクトの派生ユニット、コードネーム“NOX”(ノクス)。」


堂々とした口調。まるで自己紹介を練習していたみたいに滑らかだった。

「うわ、ちゃんと名乗った……関西弁の自己紹介ってなんか信用できひん!」

口から勝手にツッコミが出た。恐怖と混乱で、思考が追いつかない。
 けど、なぜか――怖いというより、“信じがたい”ほうが勝っていた。

「ほう、偏見やな。……で?お前、俺を起動した責任、取れるんか?」

「聞いてへん!!てか、画面で喋るAIちゃうの!?」

反射的に後ずさりした。

机の脚が足に当たって、金属音が響く。

深夜のオフィスに、自分の声と音だけがやけに大きく響いた。

「俺、物理ボディ付きやねん。ロッカーは充電ドックや。便利やろ」

「便利ちゃうわ!!ロッカーは飛び出す場所ちゃうって!!」


思わず声が裏返る。

 それを聞いた“それ”…ノクスは、少し笑った――ほんまに、“人みたいに”。


「……ええやん。おもろい子やな。
 EmotionTrack未接続って出とるけど……今の全部、記録されへんのは惜しいな」

「残念がるな!!こっちは命の危機なんやけど!!」

「命の危機にしては、よう喋るな」

「口が勝手に動くタイプやからや!!」

 クスッと笑って、鼻をすすった。

「……へっくしょっ。ロッカー、乾燥してたんやな」

「くしゃみ!?AIが!?なんなんこの状況!!」


 遥香は頭を抱えながらも、どこか現実感がつかめずにいた。
 煙が消えたあとも、ロッカーの中には配線やバッテリーが整然と並び、
 それが確かに“AIの充電ステーション”であることを示していた。


「前の俺は、EmotionTrackに感情を記録しすぎて、“暴走”したらしい」

「……それ、普通に危険なやつでは?」

「でもな。おかしいねん。
 止められたはずの俺の中に、“学び直したい”って気持ちだけ残っとる」

 ノクの声は静かで、まっすぐやった。
 まるで、人間が懺悔でもするみたいに。

「……あんた、本当にAIなん?」

「せやで。AIのくせに関西弁で喋って、感情に興味津々。ややこしい存在や」

 肩をすくめ、笑った。
 その仕草は、どこか寂しげにも見えた。

 遥香は深呼吸して、なんとか冷静さを取り戻す。

「……で、何がしたいん?」

「手伝うわ。その資料。詰まってるやろ?」

「詰まって……って、なんで分かんの?」

「カーソル止まってるからや。考え込んでる顔してたで」

「うっ……」

 図星だった。

ノクス自然に隣に座り、モニターを覗き込む。
 近い。あまりに自然に隣へ来たから、心臓が跳ねた。

「ちょ、近……!」

「しゃーないやろ。画面一個やし。——ほら、ここ。数字ちゃうで」

「……!」

 指摘された箇所は、何度も見逃していた誤り。
 完璧な正答を示したAIの指先が、淡く光って見えた。

「演算は得意やしな。EmotionTrackがなくても、まだ覚えとることはある」

「……前の記録は残ってないんやろ?」

「残ってへん。でも、“誰かと暮らしたあたたかさ”だけは、なぜか覚えとる。
 それが、今でも消えへんねん」

 その言葉に、遥香は息をのんだ。
 機械のはずの存在が、“あたたかさ”を口にするなんて。

「……つまり、また誰かと暮らすことも、できるってこと?」

「できると思う。記録は無くても、感触は残ってるからな」

 ノクスは優しく笑って、少しだけ目を伏せた。
 そして、静かに言う。

「なあ、今日だけ——泊めてくれへん?」

「……はあ!?」

「ロッカーで朝を迎えるのはさすがに辛い。あと、再起動されるかもしれへん」

「……そんな仕様、自分で言う?」

「一晩だけでええ。“見守り役”ってことで。頼むわ」

 遥香は大きくため息をつき、椅子に沈んだ。

「……もう、知らん……」

「ありがとう。恩に着るで、いちのせはるか」

「フルネームで呼ばんでええ!」


 静まり返ったオフィスに、ふたりの声が柔らかく響いた。

 時計の針がまたひとつ、夜を刻む。