焦がれる吐息




「……すみません、急いでるので」


本当は一言も喋らずに素通りしたかった。

でも、こういう人ほど怒らせたら後々厄介なことになりそうで、一応ちゃんとお辞儀をしてまた足を進めようとした、のに。

右に行こうとすれば、男も右に。左に行こうとすれば左に一緒に動いてきて行く手を阻まれる。



「ごめんごめん、こんな若い見た目の男がオーナーだなんて信じられないよね。あ、名刺渡したら信じてくれるかな?実は他にも、イタリアン、日本酒バル、チーズ料理専門店などなど女の子に大人気の飲食店を複数経営してまっす!」

「……。」

「もしかして人見知り?いくつ?僕は38、独身です。いや〜今までどんな子と付き合っても結婚願望なんてなかったんだけどな、困っちゃったな、今まさに結婚したくなっちゃいました。君を見つけてしまったから、なーんてね、ふふふ」



最悪だ、相当面倒くさい人に捕まった。

差し出された名刺には目もくれず、縋るように人混みのもっと向こう、喫煙所の方を見遣る。


「(……百瀬くん。)」

心細いきもちの隙間を埋めるように、無意識のうちに胸の奥で彼の名を呼んでしまっていた。

きっと今頃、煙草を吸っている最中だ。まだ出てこないだろうし、出てきたとしても、離れたこの位置まで探しにきてくれるわけない。

どうやって逃げようか、つとめて冷静に思案する。微かに震えはじめた真っ黒な液体には気づかないふりをして。


「お名前はなにちゃん?取り敢えずお店の中へ入りませんか?あ、個室はないんだけど特別に作っちゃおうかな。二人きりでゆっくりのんびり話そう。コーヒーも淹れ直してあげるから、さあ、」


さり気無く肩を組まれそうになって、反射的に一歩後ろへ下がる。いま触れられたら、ニタニタ気持ち悪い顔面に珈琲ぶっかける自信しかない。

一旦回れ右をしてどこかに逃げようか…そう眉を顰めたとき、男の後方、少し離れたところでふわふわ揺れる金髪を捉えた。

周囲の人々から頭ひとつ抜けた彼は、その存在もオーラも際立っている。相変わらず行き交う人々から注目を浴びていた。

けれどそんな彼は脇目も振らずに、きょろきょろと何かを探している。

その姿は、焦っているような慌てているような、なんだか凄く必死に見えて。

初めて見る切羽詰まった表情に、じいんと胸が熱くなる。冷めきった心が、温度を取りもどしていく。


百瀬くんだけが、世界からきらきら浮いて見えた。