———大丈夫、冷静に、落ち着いて、
すぐさま視線を逸らした私は、俯き足を早める。こういう時は、無表情、無反応がベスト。
一瞬だけ見たその男は、スーツ姿で年上のようだった。顔はもう既に忘れてしまいそうなほど印象に残らない、どこにでもいそうな面。
「え、あ、待ってください!」
視界の隅で、尖った革靴が引っ付いてくるのが見える。嫌味なくらい黒光りしたそれを見ないようにして、ひたすらに足を動かす。
———大丈夫、冷静に、落ち着いて、
「、っ、」
過去からずっと染み付いているおまじないのような言葉を繰り返していたとき。目の前に飛び込んできた腕に、心臓がヒュッと跳ねた。
「ごめんごめん、急に声掛けちゃって吃驚したよね?」
まるで通せんぼするようなそれに、急ブレーキをかけざるを得なくて強制的に足が止まってしまう。馴れ馴れしい口調に不快感が増した。
光沢あるネイビースーツの腕を無言で見据えれば、男はくすっと態とらしい笑みをこぼして私の前に回り込む。
「貴女が嬉しそうにコーヒーを受け取ってくれているのを見て運命感じちゃって、つい追いかけてきちゃいました。ぜひぜひ、お味の感想ゆっくり聞きたいな〜なんて。あ、僕、その店のオーナーの西野です」
ただのナンパかと思っていた私は、予想外の言葉に思わず顔を上げてしまった。目が合った瞬間、男はニンマリ得意げな笑みをつくる。
「うちのコーヒーは他とは違いますよ。僕自らハワイを駆け回って厳選したんです。現地農家から買い付けた豆を愛情た〜っぷりに注いで焙煎してて。あ、そうだ、」
勝手にぺらぺら喋り始めたと思えば、急に口元に人差し指を立てて。
「よかったら他のお客様には秘密で、特別にパンケーキでもなんでもサービスしますよ?」
ぱちん、と下手くそなウィンクをしてきた男に絶句した。さっきの百瀬くんと同じポーズなはずなのに、まったく違う。天と地の差よりもっと差がある。
ぞわっと神経に悪寒が走って、身も心も凍りついた。
まだ出会って一分未満だけれど、ナルシスト臭がぷんぷんする。
それを確信づけるように、男は人差し指をおろす際、高級そうな腕時計を付けた手首を無駄にふるふる揺らしてその存在を主張してきた。
無言で視線をそらした先、両手に持った珈琲がやけに重く感じて途端に不味そうにみえる。



