「……お母さん、あのね、」
一度だけ、ドレッサーに向かう母の後ろ姿に声を掛けたことがあった。確か中学二年にあがった頃。
久しぶりに母に向けたその声は、思った以上にか細かった。
「なあに?てかあんた、痩せすぎじゃない?もお、変なダイエットとかやめてよね。唯でさえご近所さんに白い目で見られてんだから。夕飯ちゃんと食べに来なさい」
「……ん、ごめん」
鏡越し、化粧をしながら話す派手な母の顔から視線を落とす。背中で握り締めていた薄ピンクの封筒の端を、ぐしゃと潰して睫毛を震わせる。
「あ、そういえばね?羽柴さんが今度、澄香も一緒に食事でもどうかって誘ってくれたの!ホテルのディナーご馳走してくれるらしいわよ。流石よね〜あの人とは大違い。離婚して良かったって思わない?」
「……」
「実はね、生活費も少し援助してもらってるの。だから澄香も羽柴さんに感謝してね、分かった?」
心臓がきゅうと縮こまって、感情がぽろぽろ欠けていく。
反して、もう一度顔上げたその先で、幸せに満ち溢れている母の顔が鏡に映っていた。
「……うん」
やっぱり、言えなかった。絶対、言えない。
砂の城のように脆い母との関係が、私の一言で崩れてしまったらどうしよう。立て直している母の幸せを奪ってしまったらどうしよう。
今あるものが、全て壊れてしまったらどうしよう。
未熟だった私は解決策なんて分からなくて。
ただ、母と、そして母との関係を、生活を壊さないように崩さないように必死だった。
そうして薄ピンクの封筒を受け取るのすら当たり前のようになって、あっという間に中学三年の春を迎えてしまった。
羽柴は封筒を送ってくるだけで、何もしてこなかった。今思えば、登下校でも休みの日でも、怯えて、警戒して、常にケンちゃんの隣にいたからかもしれない。



