そんな事よりも、直ちに正したい事が一つある。
“仕事が恋人のような男”という妙な流説だ。
誰が言い始めたのか、一体何故そう思われたのか。
恐らく全社員から勝手なイメージを持たれているようだが、それは断じて違う。だって、俺は———
ちょうど席を立ちあがろうしていた頃。忙しなく人が行き来するロビーが、不意にしんと不思議な静寂に包まれたような気がした。
「(……来たか。)」
人々がこっそりと振り返るエントランス、そこから颯爽と現れたのは一際目を惹かれる存在。
上品なダスティーブルーのロングチェスターコートに片手を突っ込み、反対には白色のジムバックを揺らす一人の女性。
小さな頭、伸びやかな手足、すらりと美しい流麗な身体の曲線。冷たく優美な雰囲気を纏いながらショートブーツを鳴らす姿は、数多くのモデルを見てきた目の肥えた人間だって即答できる。
群を抜いて、綺麗だ。
警備員に会釈をする一瞬、濃紺の髪がふわりと揺れる。ただ一つの仕草でさえ色香が振り撒かれているように見えて、心臓が早鐘を打つ。
コツ、コツ、コツ、と女神が近づいてくる。
今日はこちらに顔を向けてくれるだろうか。
そんな事を想いながらパーテーションになっているドラセナの葉から見惚れてしまえば、いつの間にか見目麗しい姿は通り過ぎていた。
慌てて席を立ち、スーツには不釣り合いな黒のスポーツバッグを引っ掴む。
エレベーターの手前、立ち止まった華奢な背中。
全力の早歩きで追いついてまず一つ、心を落ち着かせる為に静かに深呼吸をする。
眼鏡を上げ直し、ネクタイを締め直す。
そして至って冷静に、平常運転を意識して声を発した。
「おはようございます、澄香さん」
細い背中にふわふわ広がる、柔くカールされた艶めく髪が振り返る。
同時に、大きな瞳がこちらを見上げた。妖艶な下三白眼が自分を捉え、ゆったりと長い睫毛が瞬く。
そして、伏し目がちに。
「……おはようございます」
小さくぽそりと落とされたのは、まだ起き抜けのような気怠げな声。
透かさずズキュン!と左胸が痛くなる。
この瞬間が、たまらなく好きだ。彼女の瞳に映れるたった唯一のこの時間、これこそ生き甲斐なのだ。
そう、“仕事が恋人のような男”、“恋愛に一切興味がない冷徹な男”などという噂は断じて違う。
———俺は、片想い歴4年目に突入する男なのだから。



