「俺は、何もしてないですよ」
「……え?」
シーツを取り返そうと、さり気なく引っ張ろうとしていた手が思わず止まる。
「澄香さん、シャワー浴びてから洗面所出てすぐの廊下で倒れたんです。だからベットに運びました」
「ただ、それだけです」そう短い言の葉をそっと置くだけで、百瀬くんは呆気なく立ち上がってしまう。
追いかけるように見上げれば、安心させるように桜色の唇は綺麗に綻んだ。
「何か作ってきます。ゆっくり休んでてください」
降り注ぐ朝色の眼差しは、どこまでも優しい。
潔く背を向けた百瀬くんに、喉が熱く痛くなる。
———嘘、だ。
「何もしてないです」なんて、違う。
私は、いま嘘をつこうとしていた。
本当は、覚えている。
いつもより乱れた、星のように煌めく髪も。
痛そうなほどに冷えた、やさしい指先も。
暗い世界から守るように大切に包み込んでくれた温もりも。
『俺は澄香さんの弱い所も全部、見たいです』
『もっと知りたいし、もっと近づきたい』
身体に、鼓膜の奥底に、胸の中にちゃんと残っている。けれど臆病で狡い私は、彼の優しさに触れないように、忘れたふりを選ぼうとした。
きっと、このまま彼のやさしさに甘えて、彼が部屋を出て行けばこれまで通りだ。
適度な距離を取って、当たり障りのない関係のままで、そうして一ヶ月過ぎればいい。やさしい温もりの意味も、言葉の真意も、知らないままでいたほうがいい。
私は変われない、逃げてしまえばいい。
———そう思っていた、のに。
「……澄香さん…?」
指先が、咄嗟に伸びていた。
気づいた時にはもう、一歩遠のいた百瀬くんの肘、黒のスウェット生地に触れて。今までの彼を真似るように、弱々しく引っ張っていた。
私から、初めて彼に触れた瞬間だった。
「……すみません、嘘をつきました」
振り向き、驚いたように目を見開く彼を見上げて頬を熱く燃やす。
本当は今すぐにでも、シーツに篭りたかった。
でも恥ずかしさに耐えるように、彼からそっと離した指先で膝元のシーツを精一杯に握り締める。
「……私も、覚えてます。百瀬くんのこと。」
「え…?」
「…その、帰ってきてからは覚えてないんですけど……迎えに来てくれたことは、ちゃんと覚えてます」
気まずくならないようにしてくれたのか、気を遣ってくれたのか、私の面子を立ててくれたのか、彼だったらそのどれにも当て嵌まりそうで。
確かに与えてくれた一つ一つの優しさに触れることも、明かすこともしない百瀬くんに、込み上げてくる熱い感情からもう逃れる事ができなかった。



