なかなか踏めない目の前の水溜まりは、傍らで走り去っていく車の振動で小刻みに波を起こす。
段々と体温を失っていく指先をトレンチコートのポケットに突っ込めば、こつんと、煙草の箱に触れた。
『あ、そういえば先輩、今日はあんまり煙草の香りしませんね?』
『ふふ、先輩の元の香り?っていうか〜なんかふわわーんって好きなんですよね〜わたし』
不意に、先ほどの尾崎の言葉が、必死に塞ぐ記憶の蓋を押し退ける。
まずい、と、血の気が引くのを感じたときには遅かった。
“ いい匂い、本当にいい匂い”
もがいても、もがいても、抜け出せない。
腕を、脚を、鳩尾を、地面にめり込むように押さえつけられる痛み。
首を掠めるのは、すんすんと不快な鼻息。
そして、自身の目尻から伝う雫の冷たさ。
さらさら降り続ける雨と同じように、当時の自分の姿、感覚、痛みが、頭の中で次々と哀しく降りはじめる。息が上がり、嫌悪と恐怖が、酔いがまわるあたまいっぱいに広がる。
どうしよう、どうしよう、頭の中で囁き声が走り回った。ほろほろ、繕い続けた心はほつれて、絶望的な自分が露出していく。
「(今すぐ、煙草を吸わなくちゃ、)」
突然、取り憑かれたように喫煙できる場所を探し始める私は、側から見たらきっと異常だった。
でも、いつもの冷静さをどんどん見失っていく。
あの日から、煙草の香りは、私の鎧になっていた。



