~シーン3~
再び、白い空間。神が、沙耶の真正面で穏やかながらも真剣な表情を向けていた。
「さて——君の『心の扉』、少しだけ開けてくれるかな?」
「……勝手に開ければ。」
沙耶は感情のない声で答えた。
「そうはいかない。君が、ちゃんと見るって決めないと。『君自身』の記憶だからね。」
沙耶は俯き、遠い過去をなぞるように話し始めた。
「あの頃の私は……まだ、信じることが怖くなかった。教室の窓際、三列目の席。午後の陽光が砂埃を照らす中、アイツはいつも突然やってきて、勝手に喋って……私のノート、覗き込みながら、楽しそうに笑っていた。」
その瞬間、後方から懐かしい悠希(ゆうき)の声が響いた。その声は、まだ幼さが残る、温かい響きだ。その声が、今も耳に残っている気がした。
「……オレ、沙耶の味方だからさ。」
まるで、空間そのものが記憶を再生したかのようだった。
沙耶の顔に微かな微笑みが浮かんだが、それはすぐに曇った。
「……でも。数日後。いつもより教室がざわついてて、耳に入ったんだ。『ねぇねぇ、沙耶の家、結構やばいらしいよ』って。その言葉が、耳に入ったんだ。『誰にも言わない』って、アイツ……誓ったはず、なのに。」
沈黙。沙耶は、まるでその時の痛みが蘇ったかのように、白い空間の中で拳を強く握りしめた。
「……あの時、全部、壊れた。もう、誰にも期待しないって。信じる方がバカを見るんだって。」
「ーー『それが君の選んだ答え』。」
神は静かに言った。
「……そうだよ。悪い?」
「でもね、それが“すべてじゃない”ことも、君は知ってるはずだよ。」

「……過去なんか見せて、何になるの。」
沙耶は問いかけた。
「思い出すのって、痛いけど……それも前に進むためのひとつの呼吸だよ。」
「別に、前に進みたくなんかない。あんたには分からないでしょ。信じた相手に裏切られるなんて。」
神は一歩、沙耶に近づいた。
「……彼が『裏切った』と、本当に思ってる?」
「……は?」
「誤解ということもあるよ。言わなきゃ伝わらないこともある。でも、君はもう聞くつもりも、確かめる気もなかった。」
神の声は、責めてはいなかった。ただ、真実だけを淡々と告げていた。
沙耶は反論しようと口を開くが、言葉が出ない。
「……聞けるわけないでしょ、あんなの。」
「じゃあ、もし——君がもう一度、彼に会えるとしたら。」
沙耶は一瞬、言葉を失った。
「……なにそれ。まさか……。」
神は静かに、そして衝撃的な事実を告げた。
「悠希は——君が死ぬ、ほんの数日前に。君より先に、ここへ来ているよ。」沙耶は凍りつくように目を見開いた。全身から血の気が引く。
「……え?今、なんて?」
「君と同じように、『途中で』終わってしまった。だが彼には、未練があった。——君に、言いたかったことがあった。」
「……なんで、今さ……そんな。」
沙耶の声が震える。
「この場は『終わらなかった思い』を、整える場所でもある。彼と向き合うかどうかは、君が決めていい。」
沈黙が続く。沙耶はしばらく俯いたままだった。
「……そんなの……いまさら聞いたって……。」
それでも、彼女の心に微かな希望が芽生える。
「……でも、もし……本当に、あいつが――。」
沙耶が舞台の下手へゆっくり移動すると、上手から案内人が現れた。
「……また、厄介な子だな。」
案内人は苦笑いした。
「正直、ね。」
神も同じように苦笑する。
「でも、お前が面談担当したってことは――やっぱり、見込みあるってことか。」
「うん。ちゃんと『傷の正体』を知ってる子は、変われる可能性が高い。」
「でも、その分、壊れやすいんだよな。」
「そう。だから慎重にいく。」
(ふっと、二人の間に静けさが訪れる)

「……お前さん。昔、俺を面談したときもこんな風にやったっけ?」
案内人が尋ねた。
「んー、あの時はもっと面倒だった気がするな。」
「はは、だろうな。……でもさ、こっち側に来て、ずっと思ってるんだよ。『ああ、生きてる間に誰か一人でも、こうやって向き合ってくれたらな』って。」
神は静かに頷いた。
「それを、今は俺たちがやる番だよ。ここに来るのが、終わりじゃないってこと。『始め直すチャンス』が、ここにもあるってことを。」
案内人は優しい表情になった。
「……じゃあ、そろそろ声をかけてやれよ。あの子、たぶん……揺れてる。」
「うん。」
神は沙耶の方へゆっくりと歩み寄り、再び空間は静寂に包まれた。
「ねぇ、沙耶。——後悔って、癒えると思う?」
沙耶は少し顔を上げるが、答えられない。
「多分、簡単じゃない。時間は戻らないし、言葉も消せないからね。でも、『置き去りにしないこと』はできるよ。例えば、君があのとき感じた痛みを――もう一度、誰かのために使うことができたなら。それって、無駄じゃなかったってことになると思わない?」
沙耶は神を見上げる。その視線は揺れていた
「……会ったら、きっと後悔する。怒るかもしれないし……泣きたくなるかもしれない。それでも……もし、ちゃんと話せたら……。あの時の私に……『ちょっとだけ救いがあった』って、そう言える気が、する。」
「うん。それで、いいんだよ。強くなるってことはね、『傷がない』ってことじゃなくて——その傷痕を『抱えながらも、前を見られること』だから。」神は微笑んだ。
「準備ができたら、呼んで。彼も、君に会いたがってる。」
沙耶は深く呼吸し、一度力強く頷いた。