一瞬の沈黙。
けれど、それを否定する気にはなれなかった。
カップの中でコーヒーの表面が揺れる。
その波のように、心の奥も静かに揺れていた。
(……もう一度、あの香りを、作れたら)
言葉にはならない思いが、胸の奥でかすかに形を持ち始めていた。
休日の午後。
窓の外では、春の光がやわらかく揺れていた。
久しぶりに取り出したボウルと泡立て器。
手にした瞬間、指先が少しだけ震える。
(……大丈夫。ただ、混ぜるだけ。リハビリ、みたいなものだから)
そう自分に言い聞かせて、卵を割った。
黄身がとろりと流れ落ち、ボウルの中で光を受ける。
砂糖を入れて混ぜると、泡立て器の音が静かな部屋に響いた。
そのリズムが少しずつ、呼吸を整えていく。
溶かしたバターの香り。
小麦粉をふるうときの粉のやわらかな感触。
オーブンの予熱が始まると、空気がふんわりと温まった。
(この匂い……懐かしい)
胸の奥がきゅっと締まる。
(でも……また作れなくなったら、と思うと少し怖い)
けれどそれは、痛みというより“懐かしさ”に近かった。



