「春斗くん、足痛くないかな」
「うん、大丈夫っ。ありがとう胡桃ちゃんのパパ」
奏に簡単な消毒と、絆創膏を貼ってもらった春斗は応援席にいる小春の元へ戻ってきた。大人達の心配そうな視線は春斗へ注がれていた。宗一郎が安堵したようにため息を漏らす。
「野雅琉さん、春斗のご心配ありがとうございます。私も息子が転けたのは本当びっくりしましたけど」
そう言いながら小春は深く頭を下げる。宗一郎はいえいえと笑う。
「結構派手に転けてましたから、大丈夫かなって。春斗くんの転けても負けない元気さには驚きですよっ、あはは」
頭をかきながら笑っている宗一郎の隣いる女性と小春は目が合う。初めて見る顔だ。女性が軽く会釈をすると、小春も会釈をする。
「お初ですよね。初めまして。胡桃の母の韮島 幸恵です」
やっぱりかと小春はすぐに納得してしまった。この女性が胡桃を産み、宗一郎の元妻でもあったのだと。よく見れば確かに彼女は胡桃に似ている。
「胡桃に寂しい気持ちをさせていたって気付かせてもらいました。そして、幸恵とまた連絡を取り始めました」
「ママーっ、パパーっ」
遠くから明るい声が聞こえると、トテトテと胡桃が走ってきて幸恵に抱き付いた。そんな光景を見るだけで胸が温かくなる。母はしゃがみそんな愛らしい娘をぎゅっと抱き締めた。
「どうしたのよ、甘えてきて」
「ママ、えへへ。春斗くんだいじょーぶ」
胡桃は春斗に問いかけるように聞く。彼は元気に頷いて返事をする。宗一郎は胡桃の頭を撫でながら、幸恵と視線を交わしあっていた。
ー私も彼もこんな素直になれたらいいのに。
小春は、幸せな光景を見ているとは裏腹に、頭の片隅でそんなことを考えてしまう。
ー...いいえ、この子は俺の大事な生徒ですから。当たり前のことをしただけです
彼から前に言われた言葉を思い出した。頭を横に振る。今の結斗にとって春斗はただの自分のクラスの生徒の1人。そして小春はその保護者としか思われていたいのだと。
小春は自分の青いスニーカーの先っちょを見つめる。
「...教師目指してる人間には敵わないって言ってたね...」
小声だった。ポツリと小春がつぶやいた言葉は、宗一郎達には聞こえなかった。だが、誰かに手を引っ張られ、我に戻る。春斗が心配そうな顔で母親を見つめていた。
「...ママ、どうしたの」
「あぁ、うん。ごめん、春斗。ちょっと考え事してただけ」
『2年生の皆さん、素敵なダンスありがとうございましたーっ、さーて次は恒例の人気プログラム、学年代表の先生達による借り物競走です』
グラウンドに元気な放送委員の声が響く。生徒達は自分のクラスの応援席へと戻っていく。生徒達に水分補給や休憩をしてもらうための時間であるが、盛り上がる時間でもある。東雲の隣に立っていた蒼夜が、何やら聞き始めた。
「せんせー、かりものきょうそーってなに」
「借り物競走ってのはね、封筒を1つ持ってその中に書いてあるものお題を借りるものなんだよ」
「おだいってなあに」
「そうだねえ。たとえば、青い物って書いてあったらあすこにいる佐藤先生を連れてゴールしても良いし、眼鏡とかだったら眼鏡かけてる人を連れてゴールする感じだよ」
「へえ、楽しそー」
『今回は走っていただく先生方の発表です。1年生代表、東雲先生。2年生代表、平塚先生。3年生代表、柏木先生。4年生代表、水野内先生。5年生代表、福田先生。6年生代表、月山先生。今呼ばれた先生方は競技の入り口に集合してください』
その瞬間、1年生達の視線は結斗に集まった。結斗は、恥ずかしそうに頭を書いた。まさか自分が選ばれるなんて思ってもいなかったから。
「頑張ってくださいよー、東雲先生。私の1年2組も全員で応援しますからね」
詩織は、結斗の肩を軽く叩く。
「東雲先生が選ばれたんだから、思いっきり楽しんでこいよっ、なっ。東雲先生の1年1組の生徒だけじゃ応援足りねえかもだから俺の1年3組も全員で東雲先生のこと全力で応援してやる。福田幸助だけには負けるなよ」
すると今度は飛竜が結斗の頭をバシッと叩く。案外痛くて、「痛っ 」と声に出てしまう。飛竜は大声で笑い出す。それに釣られて生徒の何人かも笑い出した。
「1年生の皆が東雲先生の活躍楽しみにしてるから。...退院した後だからあまり無理しないでね」
「...ありがとうございます、福寿草主任」
結斗は良い同僚達を持ったなと心から思った。彼は競技用の入り口に向かうべく、手を振って1年生達とはお別れした。生徒達から「がんばってー」と応援が聞こえる。飛竜、詩織、薊の声も聞こえる。
彼の中では、楽しみたい気持ちもあったがどんなお題が出されるのか不安な気持ちもあった。歩いている途中、保護者用席から運動会を見ている小春と目があった。小春は、彼に気がつくと頑張ってと声には聞こえなかったが口を動かして伝えてくれた。そんな彼女に答えるように、結斗は頷いた。集合場所に来るとすでに教師達は集まっていた。
「あ、東雲先生。復帰したばかりなんですよね。競技に参加して大丈夫ですか」
最初に声をかけて来たのは平塚由美だった。由美は、髪を縛りながら結斗に心配した表情を向けた。
「平塚先生、ご心配ありがとうございます。僕はもう元気が戻って来ましたから」
「...よかった。安心しました」
由美も過去に熱中症で倒れた経験があった。だから、結斗に同情しとても心配していた。
「あんま全力で無理して走んなよ、東雲先生。また医者にお世話にならんといてな」
「福田先生もありがとうございます。自分の不注意だったのにこんなに心配してもらって逆に申し訳ないです」
そんな会話をしていた。残りの4人の先生と少し話していると放送が入った。
『集合を確認いたしましたので、ただいまより学年毎の教師対抗借り物競走開始させていただきます。教師の皆様は、入場していただき、白い線に一列で並んでください』
運動委員会の生徒達に案内され、スタート位置に並ぶ。全校生徒のざわめきが大きくなり、6人は注目される。
『ルールは、グラウンドの真ん中に置いてある机の上の封筒の中にあるお題に合う物や、人を持って来たり連れて来たりしてください。そして、ゴールまで走ってください。因みにお題はゴールするまで誰にも言ってはいけません」
「...東雲先生、ドキドキしてんのか」
隣に並んだ幸助に結斗は心の中を見透かされていた。心臓の音が大きくなる。
「...いえ。いえ、はい。...どんなお題が不安で」
「...運動委員会が決めてくれたお題だ。答えるしかないだろ」
結斗も緊張しているのは事実だが、それを観客席から見守っている小春も同じくらい緊張していた。彼が何を引くのか、誰を連れていくのか。彼女の隣で息子が息を呑む母を見つめていた。
「ママ」
「...春斗、楽しみだね。先生達がどんなお題引くのか」
「...うん」
「いやー、東雲先生の活躍本当楽しみだねぇ、桜庭さん」
「はい。楽しみですね。三重子さん」
2人は笑い合う。春斗も、蒼夜や楓と結斗が誰を連れていくのかを楽しみに予想しながら盛り上がっていた。
「どうも、桜庭さんと...他の子どもさんの保護者さん達」
「あ、春斗がお世話になっております。飛竜先生」
飛竜は保護者席に顔を覗かせに来た。三重子と宗一郎と幸恵も軽く頭を下げる。4人でグラウンドに視線を向ける。飛竜は顔を横に向けて小春をチラッと見るが、彼女の視線は結斗に向けられていることに気が付きすこし表情が曇る。
「さて、東雲先生どんなお題惹かれるですかね」
「...さあどうでしょう。そんなに悩まないお題なら良いのですが」
「今回、俺はお題の監修にはなっていないので何があるかはわかりませんがね」
「まさか、好きな人とかお題入れてたりしませんよね」
三重子が冗談で言うと、小春の表情は固まる。
「まさか...そんなことありませんよ。先生達の借り物競走なんですからっ」
「でも先生達の好きな人とかちょっと気になったりしませんか、桜庭さん」
「み、三重子さんっ。冗談は言わないでください」
小春の頭の中では、結斗にゴールまで連れて行かれる自分を想像していた。すると、顔が熱くなる。結斗には好きな人のお題があったとしても、別のお題を引いて欲しいと心から願う。
『それでは、学年毎の教員対抗借り物競走スタートッ』
その合図とともに、バンッというスターターピストルの音がグラウンドに響く。6人は一斉に走り出した。1番にグラウンドの真ん中に到着したのは、運動とは無縁に見える温厚な月山陽子だった。そして、封筒を見るがなかなか難しそうなお題だったようで周りをキョロキョロと見る。1番遠い6年生の席まで全力ダッシュする。次々と出場者達はグラウンドの真ん中につき、机の上の封筒を取っていく。最後になったのは結斗だった。あまり他の教員みたいに全力で走れなかった。幸助が封筒を開けると「なんだこれ」と呟いた。周りを見渡す。
ー声かけに行くしかない。
幸助は心の中でそう決め、封筒を持ったまま自分のクラスメイト達の応援席で、生徒達と話しているある人を目掛けて走り出した。結斗も慌てて他の教員達に追いつけるように封筒から紙を出して、お題を確かめる。
「...これって」
キョロキョロと周りを見渡す。すると、保護者席にいる小春と目が合い、一歩ずつ彼女へ歩いていく。小春は、どうしたんだろうと思ったが、隣で飛竜は何か勘づいたようだった。小春の隣で三重子が驚いた顔をしている。
「まあっ、もしかして飛竜先生でも捕まえに来たんじゃないの。例えば引いたお題が仲のいい同性とか」
飛竜は、頭をを横に降る。
「いや、多分違うっすよ。眼鏡かけた人とかじゃないすかね」
そういうと、宗一郎に視線を送る。彼は確かに眼鏡をかけている。だが、大勢の前に出ることが苦手な為、顔が引き攣る。
「いやいや。僕が走っても足遅いので足手纏いになるだけですし。桜庭さんとかじゃないのかなって思ってまして」
「いやいや、私なんか...。お題で私を連れてくなんて変な趣味だと思われますよ。なら他の先生とかの方がいいのではないでしょうか」
結斗は少し歩き小春と目を合わせる。だが、またキョロキョロとし出す。彼が一歩踏み出すと、保護者席ではなく1年生の応援席へと向かった。ある人物の前で足を止める。だが、一瞬小春に視線を向けるが、すぐに目の前の人物へと向ける。
「秋海棠先生」
「...は、はい」
結斗は手を差し出す。詩織は、目を見開く。
「一緒にゴールしてくれませんか」
そう言うと、1年生は先生達のやりとりに目を輝かせる。そして、意味もわからず歓声を上げる。詩織は、結斗の手に手を重ねる。そんなやりとりを遠くから見ていた小春の表情は寂しそうだった。一方、その頃5年生の応援席では幸助と息を切らしてある人に声をかけていた。
「お、音葉先生っ。...あの、一緒にゴールしてくれませんか」
「うおおおおおおお」
生徒達だけに留まらず他のクラスの教師達や近くにいた生徒までもが歓声を上げた。生徒指導で怖いと言うイメージが生徒達に持たれてしまっている福田幸助だが、今だけは顔が赤く滅多に見れない表情だ。音葉は、微笑んだ。
「私でよければ」
幸助と結斗はお互いに探していた人物の手を引いてゴールへと向かう。だがすでに3年生代表の柏木がゴール済みで、月山もゴール目前だった。その他の教員達もそれぞれお題に沿ったものを持ったり、手を引いたりしてゴールへと向かっていた。グラウンドは熱気に包まれる。
全員がゴールをするとゴール位置にいたマイクを持った放送委員が、お題の書かれた紙を回収し結果発表を始める。
『それでは、教員対抗借り物競走の結果発表です。まず1位は、お題が"眼鏡をかけた人"を選んだ3年生教員代表の柏木先生でーすっ。おめでとうございまぁ〜す。コメントいただきますっ』
そう言うともう1つの手に持っていたマイクを柏木に渡した。
「この学校に来てから4年が経ちましたが、昨年選ばれた時に、ビリを取ってしまって悔しかったですが、今年はリベンジできてとても楽しかったです」
「柏木先生って意外と、負けず嫌いなんですねっ。1位おめでとうございます〜。2位は“自分と同じ苗字の人“と言うお題を引いた月山先生です」
「えぇと、月山さんいませんか〜と必死に探した甲斐がありました。そしたら、私のクラスの子が後輩に月山さんいますよって教えてくれて、走ってその子を連れに行って、2人で全力で走って2位になれました。また機会あれば参加したいです」
「自分と同じ苗字はなかなか難しいお題引きましたねっ。2位おめでとうございますっ。3位は、“大切な人”を引いた幸助先生です」
「...ええと、去年までお題って公表されてたっけな」
「今年から公表されることになりました」
「ぐぐっ...大切な人っていうお題を見た時に、5年2組のメンバーにとって大切な人を思い浮かべたら、副担任の音葉先生が思い浮かんだので」
その言葉を聞くと、幸助に掴まれていた腕を音葉は振り払う。そして、少し距離を置いた。だが彼女のその瞳は少し潤んでいた。
「お、音葉先生」
その瞬間、放送委員は何かを察し幸助からマイクを奪い返した。
「は、はいっ。音葉先生は生徒達にとても愛されてるんですね、さ、3位おめでとうございます。4位は“帽子を被った人“を引いた平塚先生でした〜」
「どんな難しいお題が来るのかドキドキしていましたが、思ったより簡単なお題で良かったです。封筒がなかなか開かなくて4位にはなってしまいましたが、久々に走れたので割と楽しかったです」
「もしかしたら今回の借り物競走で1番簡単なお題だったかもしれませんね〜。4位、おめでとうございます。5位は"仲の良い異性"を引いた東雲先生です」
お題を知ると小春は、口を噛み締める。借り物競走はただの競技にしか過ぎない。だから、保護者を連れて行っても良かったのかもしれない。だが、全校生徒や他の教員、生徒達の前だ。これは結斗が悩んだ結果だ。対照的に詩織は嬉しそうな顔を浮かべていた。結斗がマイクを握る手が震える。
「まさかこんなお題が入っていたとは思っても見ませんでした...。詩織先生は優しく話していて楽しい先生です。...ありがとうございました」
「なかなか難しいお題っぽかったではありましたが、5位おめでとうございます。次は、“青い水筒を持っている人"というお題を引いた6位の水野内先生です」
「水野内です〜。ビリにはなってしまいましたが、この中では割と考えることがないお題で良かったなと思っています。まだまだ運動会は続きますので、保護者の方や来賓の方、この後のプログラムもお楽しみください〜」
水野内の言葉に、グラウンドは拍手に包まれる。選ばれた教員達も周りに釣られ自ら拍手をした。
「ありがとうございました〜。ご参加いただいた先生方、そして一緒にゴールしてくださった方々ありがとうございました。次のプログラムはー」
空は茜色に染まり、運動会の片付けが始まっていた。結斗もテントの片付けの手伝いを始める。どこからか視線を感じた。その先に小春がいた。小春は春斗と一緒に蒼夜や楓の家族と談笑していた。結斗は、時折こちらをチラチラと見つめる。小春はそれに気がつく。結斗は屋根に使われていた白い布を段ボールに仕舞うと、その場に立ち上がる。そして、ゆっくりと彼女の元へ足を踏み出す。
「...桜庭さん」
「...はい、なんですか。東雲先生」
彼に名を呼ばれたと気がつく。だが、彼女は明らかに不機嫌だった。他の保護者達と離してる時はあんなに楽しそうだったのに。結斗は挨拶だけで終わらそうとしたが、気が変わった。
「すみません,ちょっと手伝っていただきたいことがございまして」
「...詩織先生に頼めばいいじゃないですか」
「...秋海棠先生は物凄く忙しいみたいで」
彼は彼女にどんな反応されても、教師として笑顔を崩さない。すると、三重子が小春の肩に手を置く。
「桜庭さん、手伝ってあげればいいじゃない。教師はね保護者とも仲良くするのも大切な仕事の1つだからね。春斗くんは桜庭さん戻ってくるまで蒼夜と楓くん達と遊ばせてあげましょ。私達が見てるから安心してね」
断る理由が見つからなかった。結局、三重子に対し頭を下げ、結斗の後について歩いて行く。
来た場所は、校舎の裏側で喧騒とは程遠い。風に揺れる木の音だけが聞こえる。彼は茶色の瞳で彼女を真剣に見つめる。
「で、東雲先生。手伝いってなんなのでしょうか」
その言葉からは冷たさが滲み出ていた。まるで、用がないなら早く戻らせてと訴えているようだ。どんな言葉を吐かれても彼は笑顔を絶やさない。
「...桜庭さん、その」
「要するに手伝いはないけど私をここに呼んで2人で話したかったってことですか」
彼は言い当てられて罰が悪かったのか、目の前の彼女と頑なに視線を合わせようとはしない。
「はい、そうです。嘘ついて本当にごめんなさい」
「嘘つくなんて教師としてどうなのですか。子供達のお手本にならないでしょうが」
彼女から放たれる辛辣な言葉にも彼は教師としての笑顔を忘れない。だが、そんな表情が壊れそうにもなる。
「...はい、ごもっともです。嘘をつくのは子供達に悪影響を及びます。ですが、どうしても話したいことが」
風が2人を包み込む。夕焼けに烏の鳴き声が響き渡る。小春は、結斗を見つめたまま眉を下げる。2人は一体何を話そうとしているのだろうか。
「こんなところにいたのかっ、東雲先生、桜庭さん」
「探してましたよ、東雲先生」
その声で2人の雰囲気は破れる。飛竜と詩織が駆け寄ってきた。結斗の表情は固い笑顔だった。小春は、彼らだとわかり3人に背を向ける。いや、小春が彼女へ嫉妬しているからなのだろうか。彼女が笑顔で浮いている気分だとすぐに悟っていたのだ。
「...私、春斗の元へ戻ります」
そう言い残し、駆け足でグラウンドへ向かっていく。詩織が彼女を追いかける。
「どうしましたか」
結斗はそんな2人を後ろから見つめる。飛竜が彼を睨みつける。
「...好きな女のためなら、追いかけろよ」
「...僕がいつ好きって言いましたか」
2人には重い空気が漂う。彼女との関係は何も変わらないまま運動会は幕を閉じたのだ。


