夜の風が、ほんの少しだけ冷たくなっていた。

ビル街のガラスに映る光の粒が、秋の夜空を鏡のように照らしている。

「……きれい……」

星野葵は、小さな紙袋を胸に抱えたまま立ち止まった。

中にはステラ・フローラの試作品。

佐竹部長に渡そうと思っていた調和香。

ふと見上げた空に浮かぶ満月に、その足が止まっていた。

街灯の届かぬビルの谷間、ひときわ澄んだ月が光を放つ。
どこか遠くで虫の声が響き、風が髪を撫でた。

「れん……今も、仕事してるかな」

端末の画面には未読のままのメッセージ。

『お仕事が終わったら、少しだけ空を見てね』

それだけを送った。
返事はない。

それでも良かった。

月の下なら、きっと同じ光を見ているはずだから。

葵は両手で紙袋を抱きしめそっと微笑んだ。


「おつかれさま、れん……」

その短いメッセージは、夜風とともに月光のように静かに届いた。

葵が送信ボタンを押したその瞬間、月の光が彼女の指先を淡く照らしていた。

──同じ時刻。

戦略部門ブリーフィングルーム。

無機質なホログラムの青白い光が、資料と顔とを交互に照らしている。
冷ややかな議論が続くなか、佐竹蓮は一瞬だけ視線を落とし手元の端末を見た。

画面に浮かんだのは、あの一行のメッセージ。

それを読み終えると彼は静かにまぶたを閉じた。

「……」

議事の声が遠のく。

窓の外には雲ひとつない十五夜の月。
鋭く冷たい光がブリーフィングルームに差し込んでいる。

「部長、次のスライドを──」

片岡の声がかかった。
しかし佐竹は応じず、端末を指先で閉じた。

「……ああ」

それは報告でも命令でもない。

ただ、遠い誰かへの返答だった。

ブリーフィングルームに流れる空調の音の中、彼の低い声だけが、確かな温度をもって響く。

月光がガラス越しに差し込み、彼の頬を淡く照らす。

その一瞬だけ、冷徹な会議室が──
まるで誰かを想う小さな祈りの空間のように見えた。