君は、狂愛の檻の中 ~偽りの君に恋をした~



───”湊”
───”ナツさん”

………また、知らない名前が出てきた。


また、俺の知らない名前が増える。
"湊"というのは……たぶん、この男のことだ。


そしてもう一人。
その“ナツさん”ってやつも、当然のようにそこにいた人間なんだろう。


当たり前みたいに呼ばれている関係。
当たり前みたいに共有されている時間。

それが、じわじわと現実として浮かび上がる。



「………俺は、”蓮さん”なのに。」

「えっ?」


ほぼ無意識だった。
言うつもりなんてなかった言葉が、勝手にこぼれ落ちる。

それを聞いた由良が、初めてほんの少しだけ視線をこちらに向けた。


でも、その目は何も言わない。
ただ、静かに見ているだけだった。


「そいつは……呼び捨てで、呼ぶんだな」

「…………」


由良は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を落とす。

その沈黙が、妙に長く感じられた。


……気まずいわけじゃない。

でも、どこかが噛み合っていない。



チラッと、助けを求めるように由良が男の方を向いたその時。


「……へぇ」


ふいに、男――湊が小さく声を漏らした。

笑っているのに、さっきまでより少しだけトーンが低い。



「蓮さん、ね」

軽く繰り返すだけ。

なのに、その言い方だけが妙に引っかかった。


「なんかさ」


湊はポケットに手を入れながら、視線だけをこちらに向ける。


「思ったより、ちゃんとしてるんだね」

「……は?」


思わず聞き返す。

湊は肩をすくめて、由良の方をちらりと見た。



「いや、別に悪い意味じゃないけどさ」


ゆるい声に戻っているのに、目だけは笑っていない。


「由良ってさ、昔から“そういうの”分けるタイプだったから」


────“そういうの”。

その曖昧な言い方が、逆に何かをはっきりさせてくる。


湊はそこで一度言葉を切ると、少しだけ口角を上げた。



「だからちょっと意外」

「……何が」


短く返すと、湊はすぐに笑った。


「いや? 別に?」


………軽い。
軽いのに、距離だけがやけに正確だった。


その間に、由良は何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ息を吐く。

それが“止めている”のか、“聞いているのか”すら分からない沈黙だった。


湊はそれ以上踏み込まないまま、視線を外した。


けれどその一瞬だけ、はっきり分かった。

──この男は、もう気づいている。



俺が思っている以上に、この空気が“普通じゃない”ことを。