―オリオンー

 その夜も、《迷い猫》とのやり取りは穏やかに続いた。
 
 ただ、メッセージを打つ手が、いつもより少し重く感じる。

 指先に力が入りにくい。

 冬の夜だから冷えているのかと思ったが、部屋の中はちゃんと暖房が効いていた。

 観測記録をまとめていると、また軽い咳が出た。

 最近、少しだけ呼吸が浅くなることが増えた。

 大きく息を吸おうとしても、肺の奥まで空気が入らない感覚。

 それでも、僕の頭の片隅には、もうすぐやってくるある出来事があった。


 ――数十年に一度の流星群。


 カレンダーには赤い丸をつけ、何か月も前から天候のデータを集めてきた。

 たとえ寒さで体がきつくても、あの夜だけは望遠鏡の前に立つ。

 多分、次の機会に僕は見る事は出来ない。


 =こんばんは=


 《迷い猫》からの新しいメッセージが画面に表示される。

 =今日も雲が多くて星は見えませんでした。でも、街灯のまわりにうっすら霞がかかって、ぼんやりきれいでした=

 「…………」

 その文章を見て、自然と口元がほころんだ。

 星が見えなくても、外の景色を見つけようとしている――それだけで十分だ。

 そんな彼女の変化を感じ取ると、不思議と自分の息苦しさも和らいだ気がする。


 =それも立派な観測ですね。雲や霞の表情も、夜空の一部です=


 そう打ち込んで送信する。

 送信後、深く息を吐くつもりが、思った以上に咳に変わった。

 手で口元を押さえながら、胸の奥がわずかに痛む。

 文章だけでのやりとりで良かった……心からそう思った。





 赤いペンで日付が書かれている――流星群の夜。

 何度見ても胸が高鳴る。

 気づけば、指はキーボードの上にあった。

 この気持ちを彼女にも伝えたい。

 同じ夜空を見られたら、きっと忘れられない時間になる。


 =もうすぐ、数十年に一度の流星群が来ます。もし空が晴れたら、空全体に光が流れます=


 送信ボタンを押すと、ほんの十秒ほどで既読がつく。


 =流星群……テレビでしか見たことありません。そんなにたくさん見えるんですか?=


 文字越しでも、少し身を乗り出して聞いているような雰囲気が伝わってきて、思わず口元がゆるむ。


 =条件がよければ、数分に一度は流れます。中には尾を引く長い光もあって、夜空が一瞬だけ昼みたいに明るくなるんです=

 =……それ、見てみたいです=


 短い一文だったけれど、その言葉は確かに僕の胸の奥に届いた。

 望遠鏡越しじゃなくてもいい。

 彼女が窓を開けて夜空を見上げる――その瞬間があれば、それだけでいい。

 同じ夜、同じ空を見ているというだけで、きっと僕たちは繋がれる。

 その夜のために、僕に出来る事は体調を整えること。

 ――流星群まで、あと十日。


 カレンダーの赤い丸を見つめながら、僕は静かに拳を握った。