夏の星空を見た夜の帰り道。
 丘を降りる道は、ゆるやかな坂道だった。夜風が少し涼しくなってきて、草むらの虫の声が絶え間なく響いている。二人は並んで歩いていたが、言葉はしばらく交わされなかった。

「⋯⋯ねえ、さっきの流れ星、お願いごとした?」

 一夏がぽつりと声を落とすように訊いた。

「うん。一応」

「なにをお願いしたの?」

「⋯⋯内緒」

 そう答えると、一夏は小さく息を吐き、笑った。

「そっか。そういうの、教えてくれないんだね」

「だって、言ったら叶わないだろ?」

「うん⋯⋯たしかに、そうかもしれないね」

 彼女はうなずいて、少しだけ前を歩いた。スカートの裾がふわりと揺れて、夜の闇の中でやわらかに溶けていく。

「私はね⋯⋯」
 
 立ち止まって振り返り、彼女は微笑んだ。

「理久くんが、ちゃんと笑って暮らせますようにってお願いしたんだ!」

 胸が詰まる。何かを言おうとしたけれど、うまく言葉が出てこなかった。僕が黙り込むと、一夏はまたゆっくりと歩き出した。

「なんかね、星を見てたら思ったの。私たちが見てる光って、すごく遠い昔から届いたものなんだって考えると……今こうして一緒にいる時間も、すごく大事に思えるんだ」

 彼女の声は、夜風に溶けるようにやわらかかった。

「だから、今日みたいな夜をたくさん覚えていたいな。覚えていたら、きっとどんな未来も大丈夫な気がするの」

 僕は横顔を見つめながら、心の中で強く思った。
 ──未来じゃなくて、今をもっと続けたい。彼女と同じ景色を、もっともっと一緒に見ていたい。

「⋯⋯ありがとな、一夏」

「なにが?」

「一緒に来てくれて。星、見せてくれて」

「ふふ、それはこっちの台詞だよ。理久くんが来てくれたから、私はこんなに嬉しいの」

 小さな沈黙が続き、足音と虫の声だけが響いた。
 やがて彼女が、そっと僕の腕に自分の肩を寄せてきた。

「ねえ、帰り道って、なんだか寂しいね」

「そうか?」

「うん。でも、こうして隣を歩いてると、寂しいのが少し消えるの」

 彼女の声は眠たげで、あたたかかった。僕はその肩を受け止めながら、ただ夜道を歩き続けた。


 肩を寄せ合ったまま歩くと、坂道の下りが少しだけきつく感じられた。それでも、不思議と苦ではなかった。彼女の体温が伝わってくることで、足取りが軽くなる気がした。
 
 街の灯りが近づいてきた。坂の終わりが見えてくると、二人の影が街灯に伸ばされて、ゆらゆらと重なった。

「⋯⋯ねえ、理久くん」

「ん?」

「今日の夜のこと、ずっと覚えててね」

「⋯⋯ああ」

「たとえ忘れたくなっても、忘れないで」

 彼女の言葉は、まるで願い事のように静かで、けれど強かった。
 僕は何も答えられずに、ただうなずいた。
 
 夜空にはもう流れ星は見えなかった。けれど、僕の胸の中では、あのひとすじの光がまだ消えずに残っていた。


 目が覚めたのは、午前八時を少し回った頃だった。窓の外からは、蝉の鳴き声が途切れなく聞こえてくる。昨夜の帰り道を思い出すと、胸の奥に淡い熱が残っているような気がした。

 布団に仰向けになったまま天井を見つめていると、スマートフォンの通知が震えた。画面をのぞくと、一夏からのメッセージが届いていた。

「おはよう。まだ、寝てるかな? 今日も暑いね」

 寝癖を手で押さえながら、不器用に返信する。

「起きた。おはよう」

 すぐに既読がつき、返事が届く。

「ふふ、やっぱりまだ眠そう。ねぇ、今日さ、どこか行かない?」

 指が止まった。昨日の夜、一緒に星を見て、遅くまで歩いたばかりだというのに、彼女はもう次の約束を口にする。その明るさに、僕は少しだけ救われるような気持ちになった。

「暑いし、どこに?」

「どこでもいいよ。喫茶店でも図書館でも」

 僕は、彼女との会話を思い出す。
 『いつか理久くんと水族館に行きたい!』 と、言っていたことを。

「じゃあ、水族館に行こう」