翌日の放課後も、私は理科室へ向かっていた。
昇降口ではスマホを構える生徒たちの視線がまだチラついていたから、やっぱりあの場所に逃げ込むのが一番安心だった。

扉をあけると
白衣姿の倉田先生が、笑みを浮かべて振り返る。
昨日と同じ、安心できる空気。器具を片付ける音だけが響いている。

(……ここにいると、落ち着く)

そう思いながら、今日も布巾を手にとってビーカーを拭いていた。



そのとき——。

「……イナ?」

聞き慣れた声が、理科室のドア越しに響いた。
振り向くと、廊下に立っていたのはマサキだった。

「マサキ!? 」
驚く私の横で、倉田先生の表情がわずかに変わる。

「勝手に入っていい場所じゃないぞ」
低い声。いつもの柔らかさはない。

マサキは眉をひそめながら、ぐっと私を見た。
「イナ、大丈夫なのか? 最近……毎日ここにいるって聞いたから」

「だ、大丈夫だよ! 先生は親切で理科室にいさせてくれてるんだよ?」
そう言った瞬間、倉田先生が短く息を吐いた。

「……親切、ね」

いつもなら笑って流すような言葉なのに、その声はどこか硬くて、張りつめた空気が広がった。



理科室に漂う、妙な緊張感。
私は戸惑いながらも、マサキの腕をそっと引いた。

「……行こ。今日はもう片付け終わったから」

「……ああ」

廊下に出た瞬間、心臓の鼓動が急に早くなった。
安心したはずなのに、なぜか少し震えていた。



「イナ」
歩きながら、マサキが真剣な顔で言った。

「……あの先生、本当に大丈夫なのか?」

私は慌てて笑ってみせた。
「え、だって優しいし、本当に紳士だよ?」

でも、マサキは首を横に振った。
「いや……俺にはそうは見えなかった」



先生の微妙な表情の変化。
マサキの言葉。

(……なんだろう、このざわざわする感じ)

理科室の静けさが、少しだけ違うものに思えてきた。

——その違和感が、後に私を大きく揺さぶることになるなんて、このときはまだ知らなかった。