放課後の校舎は、部活の声が響く廊下をのぞけば、不自然なほど静かだった。
イナはいつものように理科室へ足を運ぶ。

「今日も来たんだな」
白衣をゆるく羽織った倉田先生が、落ち着いた声で迎える。
机の上にはまだ片付けられていない試験管やビーカー。

「手伝いますよ」
自然にそう言葉が出る自分に、少し笑ってしまう。
今は“ここ”が安心できる場所になっていた。

――でも。

片付けがひと段落して、イナが鞄を肩にかけようとしたとき。
「もう少し、残っていかないか?」と先生が微笑んだ。

その表情は、いつもどおりの穏やかさ。
けれど、胸の奥にわずかな違和感が灯った。

「……でも、もう下校時刻ですし」
「大丈夫だよ。ここにいれば安全だから」

その言葉に背筋が冷えた。
次の瞬間――

カチリ。
背後の扉が、鍵の音を立てて閉まった。

「せ、先生……?」

「外は騒がしいだろ。ここなら誰にも邪魔されない」
先生の手が、イナの手首をそっと包み込む。
強くはない。優しいはずなのに――逃げられない。

心臓が跳ねた。
(いやだ、これ……安心じゃない……怖い!)

「む、むりむりむりーっ!!」
イナは涙目で必死に扉へ向かい、
「外からは開けれなくなったとしても、自分で中から開けられるもんっ!!」と叫びながら体当たり。

ガチャッ!
廊下へ飛び出した。

――そこにいたのはマサキだった。

「イナっ!」
駆け寄るマサキの目が怒りと焦りで燃えている。

「だから言っただろ!あいつは危険だって!!」

イナは震える声で答えた。
「でも……先生は……守ってくれると思ったんだもん……」

胸元に手を当てる。
そこには、しっかりと浮かぶ艶ぼくろ。

運命の小さな点は、今も彼女を試すように光っていた。