チャイムが鳴り、教室から人が流れ出す。
イナはわざとゆっくりノートをしまった。廊下のざわめきが遠ざかってから席を立つ。
下校時間をずらすのは、もう習慣になっていた。

向かった先は理科室。
夕方の西日が窓から差し込み、実験器具に赤い光を落としていた。

「来たか」

背を向けてフラスコを片づけていた倉田先生が、振り返らずに声をかける。
その落ち着いた低い声だけで、胸がふわっと熱くなる。

「……すみません、また手伝いに来ちゃいました」
「いや、助かるよ。片付けは一人だと時間がかかるから」

ガラスの器具を重ねる音。
イナの手からビーカーを受け取るとき、指が一瞬触れた。
ただそれだけなのに、どくんと心臓が跳ねる。

(ち、近い……声のトーンも、教室のときと違う気がする)

「イナ」
名前を呼ばれただけで、鼓膜の奥がくすぐったい。
授業中よりも柔らかい呼び方。
先生と生徒、という距離をほんの少しだけ外す響き。

「この前……ちゃんと家に着いたか心配でな。夜、電話してよかったか?」
「……あ、はい。なんか、安心しました」
「そうか。ならよかった」

短いやり取りなのに、胸の奥で安心とドキドキが入り混じる。
まるで「特別に見守られている」みたいで。



片づけを終えたころ、理科室の窓の外はすっかりオレンジ色に染まっていた。
倉田先生が窓を閉め、振り返る。

「……そろそろ帰れ。遅くなると危ない」
「はい」
「送っていくよ、車で」
「え、いえ!大丈夫です!」

慌てて首を振ると、先生は少し笑った。
「そうか。……じゃあ、気をつけて帰れ」

その笑みは穏やかで、どこか紳士的で。
背中に夕陽を受けて立つ姿が、すごく大人に見えた。

(……先生って、やっぱり特別だ)

胸の奥で、そんな想いがひっそり芽を出していた。



——でもその“特別”は、やがて別の色に変わっていくことを、まだイナは知らなかった。