ルーチェはローリエの言葉の意味を考える。

 ヴィルジールの執務室から出てきたローリエは、彼ととても親しげだった。当たり前のように腕を絡ませ、頬に触れて、妖艶に笑って──ヴィルジールは振り解くような素振りも見せなかったし、嫌そうな顔もしていなかった。

 つまり、それほどまでに親密なふたりがした“ハジメテ”のことなど、一つしかないだろう。

「……本当なのですか? ヴィルジールさま」

「何のことだ」

「ハジメテのお相手が、ローリエ様ということですっ…!」

 ルーチェは消え入りそうな声でそう問いかけ、ぎゅっと唇を引き結んだ。

 ヴィルジールはいつもの無表情のまま、ズボンのポケットに片手を突っ込んで、溜め息を一つ吐く。

「……事実だが」

 それがどうしたと言わんばかりの冷たい声音に、ルーチェは声を失った。ずるりと足を一歩後ろに引いて、そこから足を剥がすように駆け出す。

「おい、ルーチェ!」

 ヴィルジールが珍しく声を荒げたが、ルーチェは振り返らずに走り続けた。今足を止めて振り返ったら、泣いてしまいそうだったからだ。



 ──一体、何が起きたのだろうか。

 ヴィルジールはルーチェが去った方角を見つめたまま、言葉もなく立ち尽くしていた。

 今日は朝からローリエが訪ねてきてくれていた。
 ローリエは東の国境地帯を治めているハルメルス辺境伯家の人間であり、幼少期から度々顔を合わせる仲だ。ハルメルス領は首都から遠い為、こうして訪ねてきてくれるのは年に片手で数えるほどなのだが。

「……ねぇ、陛下。事実ですって言う前に、言うことがあるでしょうが」

 ローリエはがっくりと肩を落とし、呆れたように呟いた。

「何をだ」

「貴方馬鹿なの? 純粋そうなあの子が、今のアタシの言葉をどう受け取ったと思う?」

 ヴィルジールはローリエの顔を見て目を瞬く。

「初めてと言ったら、ファーストダンスに決まっているだろう」

「はー、呆れた。それでよく婚約者を捕まえられたわね」

「捕まえたつもりはない。双方同意の上だ」

 ローリエはヴィルジールの答えに納得がいかないのか、もういいわ、と素っ気なく吐くと、足音を立てながら去っていく。

 ヴィルジールはくしゃりと前髪を掻き上げた。



 執務室の前から逃げ出したルーチェが向かった先は、近くにある中庭だった。ここはヴィルジールが仕事を抜け出した時に来る場所だ。ルーチェもこの場所を気に入り、中央にある大きな木の下で読書をすることがある。

 ルーチェはいつもの場所で膝を丸めて座っていた。セルカに見つかったら間違いなく叱られるだろう。

 だが、今だけは。風の音を聞きながら、一人になりたかった。

(──ヴィルジールさまの、ばか)

 ヴィルジールの過去を詮索する気はない。だが、いくらなんでも、人目につく場所で──それも執務室で過去の女性と会っていたとは、思いもしなかったことだ。

 それだけ相手の女性が高貴な出なのだろうか。アスランが見張りで立っていたくらいだ。きっと、今日だけでなく、ルーチェに会う前も、これから先も定期的に会う仲なのだろう。

 ルーチェにそれを止める権利はない。ヴィルジールは一人の人間だが、この国の皇帝でもある。皇帝として必要な知識と経験を得るために、やむなくしなければならないことだって、きっとあっただろう。

 だけど、先ほど見たふたりの姿は、とても仲睦まじそうに見えて。思い出すだけで、ちくりと針を刺すような痛みが胸に走るのだ。

「──おや、ルーチェ様ではありませんか。そんなところに座り込んで、どうしたんです?」

 聞き覚えのある声が頭上から降る。顔を上げると、いつからそこにいたのか、目の前にはエヴァンが立っていた。

「エヴァン様……」

「……これはこれは。陛下と何かあったようですね」

 今にも涙を落っことしそうなルーチェの顔を見て、エヴァンは悟ったようだ。腕の中にある仕事のファイルを脇で挟み、ルーチェの隣に腰を下ろす。

 ルーチェはぽつりぽつりと、小さな声で話し出した。

「ローリエ様という方を、ご存知ですか?」

「ええ、知ってますよ。彼奴が何か?」

 “彼奴”と呼ぶということは、エヴァンにとっても気心の知れた間柄のようだ。やはりローリエは高貴な家の出のご令嬢に違いない。

「ローリエ様は、ヴィルジール様のハジメテのお相手らしいですね」

「……あれは仕方なくというか、消去法というか」

「仕方なく出来てしまうものなのですか?」

「本人にその気がなくとも、陛下は王族ですからね」

 ルーチェはゆっくりと息を吐きながら、顔を俯かせた。

 それは王族だから、必要なことで。必要なことだから、ヴィルジールは──。

 ただそれだけのことで、何を気落ちしているんだと、またヴィルジールに呆れられてしまうかもしれない。分かっていても、肺の辺りに詰まったような苦しさを感じる。

「……そうですよね。思い返せばヴィルジールさまって、いつもスマートでしたもの」

 ルーチェの知るヴィルジールは、女性慣れしているようなスマートさでエスコートしてくれる。周りの人間に慣れているのかとひっそり聞いた時は、そんなことはないと笑顔で返されたが、ローリエという相手がいたのなら、これまでの振る舞いには納得がいく。