これは晩秋のとある日の出来事だ。

 その日、ルーチェは結婚式及び皇后の戴冠式の打ち合わせをするために、ヴィルジールの執務室を訪れていた。エヴァンがどこからか運んできたテーブルを囲むようにして、ヴィルジールとルーチェ、エヴァンとアスランの四人で座っている。

「──では、ここで陛下がルーチェ様に誓いの口づけをされる流れでよろしいでしょうか?」

 いつでも司会進行役のエヴァンが、開始早々にとんでもないことを言った。ルーチェは固まり、アスランはお茶を噴き出している。

 ヴィルジールはというと、何を言っているんだ貴様はと言わんばかりの目でエヴァンを見ながら、ため息をひとつ吐いている。

「……いいわけがないだろう。人前で何をさせるつもりだ」

「何って、誓いの口づけですよ。結婚式の定番ですからね」

 エヴァンは満面の笑みを浮かべながら「あれもこれも外せないイベントですねぇ」などと言って、指を折って数えている。

 ヴィルジールは一瞥もしなかった手元の資料を見遣り、今度は深いため息を吐いた。資料には式の流れが簡潔に書かれている。だがエヴァンが言うような謎のイベントの文字は一つも見当たらない。

「余計なことはしなくていい。俺とルーチェを見世物にするな」

「余計なことですか!? 一生に一度の挙式なのに、ルーチェ様のためにとびきりの思い出を作ってあげようとか思わないんです!?」

 エヴァンは早口で捲し立て、ルーチェへと目を遣った。

 ルーチェは赤くなった顔を隠すように俯きながら、恥ずかしいのでやめてくださいと小さな声で言った。

「……ほら。見世物にされるのは御免だと言っている」

「えー、一生に一度の大イベントなのに、残念ですねぇ。じゃあ、その後の戴冠式でダンスの場を設けるのは如何です? 皇帝と皇后が公式の場で踊る、初ダンスっ!」

 ダンスという言葉に反応したのか、ルーチェの肩がぴくりと動く。その瞬間をたまたま見ていたアスランは口を拭ったハンカチを仕舞い込むと、ごほんとわざとらしく咳払いをした。

「ダンスはやめてやれ。それこそ見世物になると思うぞ」

「ええ? だって、以前式典で踊られていたではないですか。とっても素敵でしたよ?」

「いや、あれはだな、ジルが完璧なリードをしていたから踊れていたのであって、こいつ自身は下手くそだ」

 アスランの言葉で、ルーチェは耳まで赤く染め上げていく。

「え、そうなのですか? でも以前、エフゲニー侯爵の招待を受けて、舞踏会に参加されていましたよね?」

「無理やりな。だからあの時はジルが──むぐっ?!」

 続きの言葉を遮るように、アスランの口にスコーンが突っ込まれる。犯人はヴィルジールだ。

「余計なことはしなくていいと言っただろう」

 ヴィルジールは咽せているアスランを一瞥し、ルーチェへと目を配る。ルーチェは下手くそと言われたことを気に病んでいるのか、シュンとした表情をしていた。

「ルーチェ。お前はどうしたい?」

 ルーチェはゆっくりと顔を上げる。隣に座るヴィルジールは優しい顔をしていた。

「……わたしは」

「エヴァンの言う通り、一生に一度しかないことだ。お前のしたいようにしよう」

 そっと、ヴィルジールの指先がルーチェの耳朶に触れる。鼓動のひとつひとつすら、愛おしむように。

 たったのそれだけで、ぱっと顔色を明るくさせたルーチェは、気恥ずかしそうに希望を口にしていく。

 その様子を見ていたアスランは、ぼそりと吐いた。

「……そういうことは、二人っきりの時にやって欲しいんだが」

「シッ、お黙りなさいアスラン。元はといえば貴方のせいでルーチェ様は悲しまれたのですよ! 一瞬でパパッとキャッキャと直してしまう陛下に感謝なさい!」

「そ、そういうものなのか」

「そういうものなのです!」

 色恋関係に疎く、幼馴染の変化にもついていけていないアスランは、まるで別人のような顔をしているヴィルジールを見て、つられるように笑った。


 その後、ルーチェの希望を全て叶えるべく新たに作られた修正案は、ヴィルジールの胃をきりきりと痛くさせた。

「……何でも叶えるとは言ったが、何だこれは」

「叶えてくださるのですよね……?」

 ルーチェは子犬のように目を潤ませながら、ヴィルジールの服の裾を掴む。

 ヴィルジールはゆっくりと息を吐いてから、渋々頷いたのだった。