大陸の北一帯を治めるオヴリヴィオ帝国。その皇帝であるヴィルジールのために、日々の食事を作っている料理長のアランは、突如目の前に現れた人物を見て、手に持っていた卵を落とした。

 パシャ、と。床に落ちた卵の殻が割れ、悲しいことになってしまった音が聞こえる。だが今、そんなものに構っている暇はない。

「こ、こ、ここここここ」
「…………」
「こここここっ…」
「……おい」

 冷ややかな声を聞いて、アランは滑るように床に手をついた。石の床に散った卵液を見つめながら、震える声を出す。

「こ、皇帝陛下っ! ご無礼をお赦しください!」

「……いや」

 ぽん、とアランの肩に手が乗せられる。顔を上げろと言われたので、アランは恐る恐る首を動かした。
 見上げた先には、やはり皇帝であるヴィルジールが立っていた。その姿を目にすることができるのは、数少ない肖像画か年に数回の公式行事くらいだ。

 艶やかな銀髪に、宝石のような青目。白い肌にすっと通った鼻筋、薄い唇。男のアランでも見惚れてしまうほどの美貌を持つ皇帝が、目の前にいる。

(こ、皇帝自ら城の厨房に来るなんて、何の用だッー?!)

 アランは冷や汗が滝のように流れ出るのを感じながら、ごくりと唾を飲み干した。
 
「……作って欲しいものがある。大至急」

「は、はい。大至急、ですか…」

「大至急だ」

 アランは跳ねるように立ち上がり、手を組みながらヴィルジールの言葉の続きを待った。

 アランが城の料理人となってから、三十年。ヴィルジールが口にするものは彼が乳児の頃から携わってきた。

 ヴィルジールが即位した時に、アランは料理長に任命された。それからは日々の食事を担当してきたが、粗相をしたことは一度もない。特に好き嫌いもなければ、我儘を言うこともない現皇帝の食事作りは、全く苦ではなかったのだが。

(も、もしや……今から言われるものを作れなかったら、クビになるとか?!)

 皇帝自ら厨房に赴き、大至急作って欲しいものがあるとすれば──それは料理長十年目を迎えたアランの資格を問うために、試練が与えられたのではないだろうか。

 そう判断したアランは、何やら考え込んでいる様子のヴィルジールの足元で、騎士の如く膝を着いた。

「何なりとお申し付けください!どのようなものでも作ってみせましょう!皇帝陛下の為に!大至急!!」

「……別に俺が食べるわけじゃないんだが」

 ──それから、ヴィルジールはぽつりぽつりと“作って欲しいもの”について告げた。

「消化に良く、身体にも良く、食べやすく、お腹も満たされるもの、ですか…」

「そうだ。何日も眠っていたが、さっき目を覚ました」

「でしたらお粥が一番ですね。急ぎ作ります」

 アランは一礼してから、落ちた卵を片づけ、鍋の元へと急いだ。慣れた手つきでお湯を沸かし、ヴィルジールの希望に叶う具材を探しに貯蔵庫を開ける。

「ふーむ。その方に苦手なものや食べられないものはありますか?」

「分からない」

「では、お好きな味付けや、食べ物は?」

「……ケーキ」

 優しく奏でられた声がアランの耳を打つ。

 ヴィルジールは相変わらず顎に手を当てたまま俯いているが、宙を見つめる眼差しはやさしげだ。

「……あと、プリン、ゼリーが出ると、嬉しそうに食べていると報告があった」

「……どれも粥に入れるのは難しいですね」

 ふ、と。ヴィルジールの口元が和らぐ。その一瞬の表情を目にしたアランは、目を大きく見開いた。

(……そうか。陛下自ら頼みに来られ…それを食べさせる相手は…)

 今までの話を聞いて、相手の正体を察したアランは、笑顔をこぼしながら火の元へと向かった。

「では、今から作らせていただきます」

「ああ。──それと、これも入れてくれないか」

 ヴィルジールが懐から何かを取り出し、まな板の上に置いた。それを見たアランは、頬がさらに緩みそうになるのを堪えながら、水道の蛇口を捻った。

「でしたら、これも一緒に入れるのがよろしいかと」

「雑草にしか見えないんだが」

「雑草ではございません!これは万病に効くと言われている素晴らしいものでして」

「……説明はいいから早く作れ」

 アランは声をあげて笑いながら、いくつかの薬草とヴィルジールに渡されたものを水に浸した。

 皇帝の前でこんなふうに笑うなど、あってはならないことだが、彼は怒らなかった。

 少しだけ肩をすくめながら、鍋をかき混ぜるアランを見つめる眼差しは、皇帝というよりもどこにでもいる男のようで。

 冷酷で無慈悲、逆らうものには一切容赦しないと言われているが、そんなふうには思えないと実感したひと時だった。



「──出来ましたよ。陛下」

 出来上がったお粥を深皿に入れ、お椀とスプーンとともにお盆に乗せる。それをヴィルジールに差し出すと、彼は首を左右に振った。

「それを持って着いてこい」

「え、私がですか?」

「エヴァンと同じことを言うな」

 早足で厨房を出ていくヴィルジールの後を、アランは慌てて着いて行った。

 向かった先は、城の中心部。ヴィルジールの執務室──かと思いきや、その隣で。

「そこの部屋から椅子とテーブルを持ってこい。盆は俺が持ってやる」

「は、はい」

 言われた通りに椅子とテーブルを運び、指示された簡素な部屋に運び込むと、ヴィルジールは満足そうな様子で椅子に座った。

「もう戻っていい。ご苦労だった──アラン」

「っ………?!」

 皇帝が使用人の名を呼ぶことはない。側仕えとしている者ならまだしも、城の奥の──厨房で料理をしている男の名を、皇帝が憶えていた。そして、呼んだ。

 その事実がたまらなく嬉しかったアランは、泣きそうになるのを堪えながら、深々と頭を下げて部屋を後にした。

(──今日は、いい日だな)

 明日は何を作ろうか。おふたりで食べられるように、新しいケーキでも考案しようか。

 アランは天にも昇る気持ちで、下ろしたコック帽を被り直した。