ヴィルジールが不機嫌になるのはよくあることだ。その度に整った眉を寄せ、切れ長の瞳を更に細め、難しい顔をしている。無関係の人間に当たり散らすことはないが、エヴァンやアスランといった近しい人間がとばっちりを受けている。二人のお陰で、彼の大抵の怒りは治まるのだが──。
(──いたいた、ヴィルジールさまだわ)
ルーチェは皇帝の執務室と対になっている部屋の窓から、エヴァンから貰った双眼鏡を覗き込んでいた。
ヴィルジールは山積みの書類に囲まれている。それはいつもの光景だが、周囲にエヴァンの姿はなく、代わりにドアの傍にアスランが立っている。
二人は何か会話をしているようだが、弾んでいるようには見えない。アスランはぽりぽりと頬を掻いており、困っているようにも見えた。
「うーん。やはりお菓子を差し入れるのが一番でしょうか」
「それはおやめになった方がよろしいかと」
ルーチェは双眼鏡を下ろし、いつもの定位置で控えているセルカを振り返った。
「ヴィルジールさまは甘いものがお好きなので、喜んでいただけるのではと思ったのですが」
「…………確かにお好きでいらっしゃいますが、今回はルーチェ様が直接行かれた方がよろしいかと思います。その方が絶対に効果的ですので」
「でも、行って何をすれば……?」
首を傾げるルーチェにセルカはささやく。
「簡単なことです。ルーチェ様の“一番”が陛下であることをお伝えすればよろしいのです」
「え、えええっ……?!」
ルーチェは目をまん丸に見開いた。
「此度の件は、ルーチェ様がハルメルス卿をお褒めになったことに、陛下が嫉妬していらっしゃるようなので……ひとまず今晩は陛下のお背中を流しに行かれてはいかがですか?」
「な、なな、なななっ……!」
何を言い出すのですか、とルーチェは口をぱくぱくと動かしながら、顔を真っ赤に染め上げていく。二人が結婚してもうじき一年を迎えるというのに、ルーチェはいつまでも無垢な少女のように初々しい。
セルカは形のいい唇を横に引き、ルーチェの耳元でそっと囁いた。
──私に考えがございます、と。
◆
「──陛下、お湯加減は如何でございますか?」
月が夜空にくっきりと浮かび上がる頃に、ヴィルジールは入浴をしている。歴代の皇帝は昼夜問わず好きな時に入っていたが、ヴィルジールは雨に降られでもしない限り、夜に入ることを好んでいた。
一日の終わりに、月見酒をしながら風呂に浸かるのが好きだからだ。
「──悪くない」
「それでは私は隣で控えておりますので、何かありましたらお呼びください」
ルシアンは柔らかいタオルとネグリジェをいつもの場所にセッティングし、この後ヴィルジールが寛ぐ予定である隣室に向かおうとしたのだが──。
「…………え?」
ルシアンは扉を開けた瞬間に固まった。
なぜなら、目の前にルーチェが居たからである。
「…………ル、ルシアンさん」
「……陛下でしたら、只今入浴中ですが」
「し、知ってます!」
ルシアンは瞬きをし続けた。
「知っていて……お越しになられたのですね?」
ルーチェは恥ずかしそうにしながら、くいっと顔を上げた。何をしに来たのかは分からないが、その顔は真っ赤である。熱でもあるのだろうか。
「あの、その……今朝の誤解を解きたくて、来たのです」
「入浴中の陛下に、ですか?」
ルーチェはこくこくと頷く。その姿を見て、ルシアンはふっと笑みをこぼした。
入浴中のヴィルジールに突撃しに行くなど、ルーチェらしくない。一体どこの誰からの入れ知恵だろうか。
だが、止めるわけにはいかない。止めてしまったら、面白いものが見られ──ではなく、ルーチェは勇気を出してここに来たに違いないのだから、背中を押さなければ。
「……どうぞ、ごゆるりと」
「な、なな、長居はしませんから!」
茹蛸のように顔を真っ赤にしながら叫ぶルーチェを、ルシアンは笑顔で見送った。
抜き足、差し足、忍び足。セルカから教わった謎の呪文を心の中で唱えながら、ルーチェはヴィルジールに近づいていった。
ヴィルジールは気配に敏感な人だ。人が近づくとすぐに察知し睨んでくるが、今は入浴中かつお酒を飲んでいるからか、ルーチェが背後にいることに気づいていないようだった。
ルーチェは洗面器を手に持ったまま、ヴィルジールに声を掛ける。
「──し、失礼します。お背中を流しにきました……」
「…………は?」
ヴィルジールはいつもよりワントーン高い声で返すと、ワイングラスを手に持ったままくるりと振り返り、そして硬直した。
なぜなら、ルーチェがとんでもない格好をしているからである。
「……なんだその格好は」
「セルカさん特製です。ヴィルジールさまのお背中を流すために……」
「……お前の手を借りずとも、背中くらい流せるんだが」
「で、でも……! 流して差し上げたいのです!」
「何故だ?」
ルーチェは「うう」と言葉に詰まった。恥ずかしくて消えてしまいたい気持ちを隠すために洗面器で顔を覆うが、いかんせん透明なので全部見え見えだ。
入浴中のヴィルジールからは大人の色気のようなものが漂っている。青い入浴剤のお陰で上半身しか見えていないが、それでも普段見えない場所がばっちり見えてしまっている。
ヴィルジールの肌を見るのは初めてのことではないが、何度目だろうと恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
ルーチェは防御力皆無の洗面器からちらちらと顔を覗かせながら、ぷっくりとした唇を開く。
「……わたしのせいで……だったので」
「声が小さくて聞こえないんだが」
「っ──ひゃっ……!」
ばしゃりと水飛沫が上がったのと、ヴィルジールの口の端に笑みが滲んだのは同時で。ルーチェが悲鳴に近い声を上げた時にはもう、ヴィルジールは右手でルーチェの手首を掴み、左手で細い腰を攫うように強く引いていた。
ルーチェの視界がぐらりと傾く。ほどよく筋肉のついた美しい肌に見惚れていたのも束の間、次の瞬間には逃さないと言わんばかりに抱きすくめられ──。
「────ぶふぁっっ!?」
そして、ルーチェは広い湯船の中に落っこちた。
(──いたいた、ヴィルジールさまだわ)
ルーチェは皇帝の執務室と対になっている部屋の窓から、エヴァンから貰った双眼鏡を覗き込んでいた。
ヴィルジールは山積みの書類に囲まれている。それはいつもの光景だが、周囲にエヴァンの姿はなく、代わりにドアの傍にアスランが立っている。
二人は何か会話をしているようだが、弾んでいるようには見えない。アスランはぽりぽりと頬を掻いており、困っているようにも見えた。
「うーん。やはりお菓子を差し入れるのが一番でしょうか」
「それはおやめになった方がよろしいかと」
ルーチェは双眼鏡を下ろし、いつもの定位置で控えているセルカを振り返った。
「ヴィルジールさまは甘いものがお好きなので、喜んでいただけるのではと思ったのですが」
「…………確かにお好きでいらっしゃいますが、今回はルーチェ様が直接行かれた方がよろしいかと思います。その方が絶対に効果的ですので」
「でも、行って何をすれば……?」
首を傾げるルーチェにセルカはささやく。
「簡単なことです。ルーチェ様の“一番”が陛下であることをお伝えすればよろしいのです」
「え、えええっ……?!」
ルーチェは目をまん丸に見開いた。
「此度の件は、ルーチェ様がハルメルス卿をお褒めになったことに、陛下が嫉妬していらっしゃるようなので……ひとまず今晩は陛下のお背中を流しに行かれてはいかがですか?」
「な、なな、なななっ……!」
何を言い出すのですか、とルーチェは口をぱくぱくと動かしながら、顔を真っ赤に染め上げていく。二人が結婚してもうじき一年を迎えるというのに、ルーチェはいつまでも無垢な少女のように初々しい。
セルカは形のいい唇を横に引き、ルーチェの耳元でそっと囁いた。
──私に考えがございます、と。
◆
「──陛下、お湯加減は如何でございますか?」
月が夜空にくっきりと浮かび上がる頃に、ヴィルジールは入浴をしている。歴代の皇帝は昼夜問わず好きな時に入っていたが、ヴィルジールは雨に降られでもしない限り、夜に入ることを好んでいた。
一日の終わりに、月見酒をしながら風呂に浸かるのが好きだからだ。
「──悪くない」
「それでは私は隣で控えておりますので、何かありましたらお呼びください」
ルシアンは柔らかいタオルとネグリジェをいつもの場所にセッティングし、この後ヴィルジールが寛ぐ予定である隣室に向かおうとしたのだが──。
「…………え?」
ルシアンは扉を開けた瞬間に固まった。
なぜなら、目の前にルーチェが居たからである。
「…………ル、ルシアンさん」
「……陛下でしたら、只今入浴中ですが」
「し、知ってます!」
ルシアンは瞬きをし続けた。
「知っていて……お越しになられたのですね?」
ルーチェは恥ずかしそうにしながら、くいっと顔を上げた。何をしに来たのかは分からないが、その顔は真っ赤である。熱でもあるのだろうか。
「あの、その……今朝の誤解を解きたくて、来たのです」
「入浴中の陛下に、ですか?」
ルーチェはこくこくと頷く。その姿を見て、ルシアンはふっと笑みをこぼした。
入浴中のヴィルジールに突撃しに行くなど、ルーチェらしくない。一体どこの誰からの入れ知恵だろうか。
だが、止めるわけにはいかない。止めてしまったら、面白いものが見られ──ではなく、ルーチェは勇気を出してここに来たに違いないのだから、背中を押さなければ。
「……どうぞ、ごゆるりと」
「な、なな、長居はしませんから!」
茹蛸のように顔を真っ赤にしながら叫ぶルーチェを、ルシアンは笑顔で見送った。
抜き足、差し足、忍び足。セルカから教わった謎の呪文を心の中で唱えながら、ルーチェはヴィルジールに近づいていった。
ヴィルジールは気配に敏感な人だ。人が近づくとすぐに察知し睨んでくるが、今は入浴中かつお酒を飲んでいるからか、ルーチェが背後にいることに気づいていないようだった。
ルーチェは洗面器を手に持ったまま、ヴィルジールに声を掛ける。
「──し、失礼します。お背中を流しにきました……」
「…………は?」
ヴィルジールはいつもよりワントーン高い声で返すと、ワイングラスを手に持ったままくるりと振り返り、そして硬直した。
なぜなら、ルーチェがとんでもない格好をしているからである。
「……なんだその格好は」
「セルカさん特製です。ヴィルジールさまのお背中を流すために……」
「……お前の手を借りずとも、背中くらい流せるんだが」
「で、でも……! 流して差し上げたいのです!」
「何故だ?」
ルーチェは「うう」と言葉に詰まった。恥ずかしくて消えてしまいたい気持ちを隠すために洗面器で顔を覆うが、いかんせん透明なので全部見え見えだ。
入浴中のヴィルジールからは大人の色気のようなものが漂っている。青い入浴剤のお陰で上半身しか見えていないが、それでも普段見えない場所がばっちり見えてしまっている。
ヴィルジールの肌を見るのは初めてのことではないが、何度目だろうと恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
ルーチェは防御力皆無の洗面器からちらちらと顔を覗かせながら、ぷっくりとした唇を開く。
「……わたしのせいで……だったので」
「声が小さくて聞こえないんだが」
「っ──ひゃっ……!」
ばしゃりと水飛沫が上がったのと、ヴィルジールの口の端に笑みが滲んだのは同時で。ルーチェが悲鳴に近い声を上げた時にはもう、ヴィルジールは右手でルーチェの手首を掴み、左手で細い腰を攫うように強く引いていた。
ルーチェの視界がぐらりと傾く。ほどよく筋肉のついた美しい肌に見惚れていたのも束の間、次の瞬間には逃さないと言わんばかりに抱きすくめられ──。
「────ぶふぁっっ!?」
そして、ルーチェは広い湯船の中に落っこちた。


