◆
「──それでは、これからの話をしましょうか」
ロンダート伯爵家の次男・ライタスは、宰相の執務室でエヴァンと机を挟んで向かい合っていた。この国の政界のトップに立つ男と話をするだけでも畏れ多いというのに、何故か最高権力者である皇帝のヴィルジールも同席している。
ライタスは手に汗を握りながら、深々と頭を下げた。
「この度は、我が兄──ロンダート伯爵家の長子アレクスが大変な事をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。ご多忙な中、このような場を設けて頂き、御二人には感謝してもしきれ──」
「貴様の謝罪を聞き入れる気はない」
ライタスの言葉を途中で遮ったのは、ヴィルジールの冷ややかな声だった。彼の妻である皇后も出席していた舞踏会で、ライタスの兄のアレクスは刃物を振り回すというとんでもないことをやらかしている。妻の身を危険に晒した男の弟であるライタスからの謝罪は、聞きたくもないということだろうか。
「……申し訳ございません」
「聞き入れる気はない、と言ったのを聞いていなかったのか?」
体の芯から凍りつきそうなくらい冷たい声に、ライタスは口を開けたまま固まった。
「……陛下。ライタス殿が怖がってますよ」
テーブルを挟んだ向こう側に座るエヴァンが、くすくすと優しく笑う。怖がらせたことを自覚したのか、ヴィルジールは短くため息を吐いてから、ぽすりと音を立ててソファに沈んだ。
「顔を上げろ。ライタス・ロンダート」
絶対零度の──ではなく、絶対命令の口調に、ライタスは顔を跳ね上げた。エヴァンの隣に座るヴィルジールは長い脚を組みながら、真っ直ぐにライタスのことを見つめている。
凍てつく海のような青い瞳から、怒りは感じられなかった。
「どんな理由があったにせよ、あのような行動に出た貴様の兄はどうしようもない馬鹿だ。今朝方、伯爵夫妻も貴様と同様に頭を下げに来たが、先ほど言った通り、俺は当事者以外からの謝罪を聞き入れる気はない」
「ですが、私は弟で……あの日、兄を止められなかったのです」
「だからどうした」
「だから……私にも非があるのです。兄の愚行を止められなかったばかりに、あのような騒ぎを起こしてしまった……」
だから私は私の罪を償わせてください──と。そう言って、ライタスはヴィルジールの美しい瞳を見つめたまま、くしゃりと顔を歪めた。
アレクスは気高く美しい人だった。いつも気品と自信に溢れていて、気弱で俯いてばかりいたライタスの手を引いて、部屋から連れ出してくれるような人だ。
兄は優秀なのに、弟は──と幾度も比べられてきたが、その度にアレクスは「弟の何を知っているんだ」と怒ってくれた。次には「お前は気にしなくていい」と、胸を張って顔を上げていろと笑いかけてくれた、強くて優しい人なのだ。
強引で人の話を聞かない時もあったけれど、ライタスにとっては自慢の兄で、大好きな兄なのだ。
だから──今回、兄が牢送りにされてもおかしくないことを起こしたことも承知のうえで、ライタスはここに来たのだ。
兄の罪を共に背負い、共に償うために。
ヴィルジールは暫くの間無言だったが、やがてライタスへの答えを決めたのか、静かにソファから立ち上がった。
「──ならば選べ。今ここで氷の塊にされるか、生涯俺の下僕となるか」
「…………は、い?」
一瞬、何を言われたのか分からず、ライタスは息をすることも忘れて目を見張った。
氷の塊とは、ヴィルジールが即位してから執行されているという噂がある、刑の一種だろうか。前者は理解したが、後者は──ヴィルジールの下僕とは何だろうか。
硬直しているライタスを見て、エヴァンが声を上げて笑い出した。
「もう、陛下ってば。素直に“俺の下で生涯働かないか”って言えばいいではありませんか」
「……終身雇用だ。報酬も悪くない」
「そりゃあそうでしょうよ。あれくらいたっぷり頂かないと、貴方の下でなんて働けません。命がいくつあっても足りませんからね」
軽口を叩いてけらけらと笑うエヴァンは、この国の宰相というよりも、ヴィルジールという一人の人間の友のようだ。二人の間にはあたたかくて柔らかな空気が流れているように思え、ライタスは益々目を見開くのだった。
「え、ええと……あの……話がよく見えないのですが」
「そうか。では単刀直入に言おう」
ヴィルジールがすらりと立ち上がる。男のライタスでも見惚れてしまうくらいに美しい顔に小さな微笑を飾ると、皇帝の印章が彫られた指輪が嵌っている右手を差し出してきた。
「──ライタス・ロンダート。貴様の息が止まるその日まで、俺の下で働け」
「──っ!」
ライタスは今度こそ息の仕方を忘れ、ヴィルジールを凝視した。
何も発せずにいるライタスへと、エヴァンの穏やかな眼差しが降り注ぐ。
「ライタス殿。うちの陛下がおっかないせいで、城の行政府は常に人手不足なのです。ですので、ライタス殿さえよければ、是非行政府で働いて頂けたらと思うのですが」
「わ、私で……良いのですか?」
ライタスは消え入りそうな声で言った。兄のアレクスのように容姿端麗でも社交的でもなければ、勉学も剣術も平均以下で、才能と呼べるものもない自分で良いのだろうか。
「ライタス殿がよいのです。家族を想い、私に助けを求め、そして家族のために泣いていた貴方なら、一緒に楽し──国のために頑張ってくれると思っているので」
「エヴァン。貴様、余計な事を言いかけていなかったか?」
「なーにも。聞き間違いですよ陛下っ」
本当なのか、と訝しげな目でエヴァンを見ているヴィルジールは、冷酷無慈悲な“氷帝”と呼ぶには似つかわしくないくらい、あたたかい眼差しをしていて。
ころころと笑うエヴァンは、初めて会った時と変わらず優しい微笑みを浮かべている。
ライタスは目の奥から込み上がってくるものをこぼさないよう、震える唇を噛み締めながら、勢いよく頭を下げた。
「──このライタス・ロンダート。兄に代わり、ロンダート家の人間として、死ぬ気で働かせていただきます!」
「死ぬ気で働かれては困るんだが」
「あはははっ」
勢いのあまりに机に額を強くぶつけ、大きなたんこぶを作った姿で後日行政府に出仕したライタスは、ヴィルジールを笑わせた大物として知られる。
◆
ライタス・ロンダート。ロンダート伯爵家の次男であり、社交界からの追放を免れなかった兄に代わり、表舞台に出てきたこの男は、氷帝と呼ばれ恐れられた皇帝・ヴィルジールに気に入られ、のちの史書では寵臣として名を残すことになる。
彼が皇帝に仕え始めて翌年に生まれた皇太子も、その翌年に生まれた皇子も、それから数年後に生まれた皇女も、彼にとてもよく懐いていたという。
数十年後、彼は皇室への忠義を讃えられ、侯爵位を賜ることになる。ヴィルジール自ら贈られた家の名は、オリュザーフォン。国一無欲な侯爵家として名を馳せることとなるのは、まだ先の話だ。
「──それでは、これからの話をしましょうか」
ロンダート伯爵家の次男・ライタスは、宰相の執務室でエヴァンと机を挟んで向かい合っていた。この国の政界のトップに立つ男と話をするだけでも畏れ多いというのに、何故か最高権力者である皇帝のヴィルジールも同席している。
ライタスは手に汗を握りながら、深々と頭を下げた。
「この度は、我が兄──ロンダート伯爵家の長子アレクスが大変な事をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。ご多忙な中、このような場を設けて頂き、御二人には感謝してもしきれ──」
「貴様の謝罪を聞き入れる気はない」
ライタスの言葉を途中で遮ったのは、ヴィルジールの冷ややかな声だった。彼の妻である皇后も出席していた舞踏会で、ライタスの兄のアレクスは刃物を振り回すというとんでもないことをやらかしている。妻の身を危険に晒した男の弟であるライタスからの謝罪は、聞きたくもないということだろうか。
「……申し訳ございません」
「聞き入れる気はない、と言ったのを聞いていなかったのか?」
体の芯から凍りつきそうなくらい冷たい声に、ライタスは口を開けたまま固まった。
「……陛下。ライタス殿が怖がってますよ」
テーブルを挟んだ向こう側に座るエヴァンが、くすくすと優しく笑う。怖がらせたことを自覚したのか、ヴィルジールは短くため息を吐いてから、ぽすりと音を立ててソファに沈んだ。
「顔を上げろ。ライタス・ロンダート」
絶対零度の──ではなく、絶対命令の口調に、ライタスは顔を跳ね上げた。エヴァンの隣に座るヴィルジールは長い脚を組みながら、真っ直ぐにライタスのことを見つめている。
凍てつく海のような青い瞳から、怒りは感じられなかった。
「どんな理由があったにせよ、あのような行動に出た貴様の兄はどうしようもない馬鹿だ。今朝方、伯爵夫妻も貴様と同様に頭を下げに来たが、先ほど言った通り、俺は当事者以外からの謝罪を聞き入れる気はない」
「ですが、私は弟で……あの日、兄を止められなかったのです」
「だからどうした」
「だから……私にも非があるのです。兄の愚行を止められなかったばかりに、あのような騒ぎを起こしてしまった……」
だから私は私の罪を償わせてください──と。そう言って、ライタスはヴィルジールの美しい瞳を見つめたまま、くしゃりと顔を歪めた。
アレクスは気高く美しい人だった。いつも気品と自信に溢れていて、気弱で俯いてばかりいたライタスの手を引いて、部屋から連れ出してくれるような人だ。
兄は優秀なのに、弟は──と幾度も比べられてきたが、その度にアレクスは「弟の何を知っているんだ」と怒ってくれた。次には「お前は気にしなくていい」と、胸を張って顔を上げていろと笑いかけてくれた、強くて優しい人なのだ。
強引で人の話を聞かない時もあったけれど、ライタスにとっては自慢の兄で、大好きな兄なのだ。
だから──今回、兄が牢送りにされてもおかしくないことを起こしたことも承知のうえで、ライタスはここに来たのだ。
兄の罪を共に背負い、共に償うために。
ヴィルジールは暫くの間無言だったが、やがてライタスへの答えを決めたのか、静かにソファから立ち上がった。
「──ならば選べ。今ここで氷の塊にされるか、生涯俺の下僕となるか」
「…………は、い?」
一瞬、何を言われたのか分からず、ライタスは息をすることも忘れて目を見張った。
氷の塊とは、ヴィルジールが即位してから執行されているという噂がある、刑の一種だろうか。前者は理解したが、後者は──ヴィルジールの下僕とは何だろうか。
硬直しているライタスを見て、エヴァンが声を上げて笑い出した。
「もう、陛下ってば。素直に“俺の下で生涯働かないか”って言えばいいではありませんか」
「……終身雇用だ。報酬も悪くない」
「そりゃあそうでしょうよ。あれくらいたっぷり頂かないと、貴方の下でなんて働けません。命がいくつあっても足りませんからね」
軽口を叩いてけらけらと笑うエヴァンは、この国の宰相というよりも、ヴィルジールという一人の人間の友のようだ。二人の間にはあたたかくて柔らかな空気が流れているように思え、ライタスは益々目を見開くのだった。
「え、ええと……あの……話がよく見えないのですが」
「そうか。では単刀直入に言おう」
ヴィルジールがすらりと立ち上がる。男のライタスでも見惚れてしまうくらいに美しい顔に小さな微笑を飾ると、皇帝の印章が彫られた指輪が嵌っている右手を差し出してきた。
「──ライタス・ロンダート。貴様の息が止まるその日まで、俺の下で働け」
「──っ!」
ライタスは今度こそ息の仕方を忘れ、ヴィルジールを凝視した。
何も発せずにいるライタスへと、エヴァンの穏やかな眼差しが降り注ぐ。
「ライタス殿。うちの陛下がおっかないせいで、城の行政府は常に人手不足なのです。ですので、ライタス殿さえよければ、是非行政府で働いて頂けたらと思うのですが」
「わ、私で……良いのですか?」
ライタスは消え入りそうな声で言った。兄のアレクスのように容姿端麗でも社交的でもなければ、勉学も剣術も平均以下で、才能と呼べるものもない自分で良いのだろうか。
「ライタス殿がよいのです。家族を想い、私に助けを求め、そして家族のために泣いていた貴方なら、一緒に楽し──国のために頑張ってくれると思っているので」
「エヴァン。貴様、余計な事を言いかけていなかったか?」
「なーにも。聞き間違いですよ陛下っ」
本当なのか、と訝しげな目でエヴァンを見ているヴィルジールは、冷酷無慈悲な“氷帝”と呼ぶには似つかわしくないくらい、あたたかい眼差しをしていて。
ころころと笑うエヴァンは、初めて会った時と変わらず優しい微笑みを浮かべている。
ライタスは目の奥から込み上がってくるものをこぼさないよう、震える唇を噛み締めながら、勢いよく頭を下げた。
「──このライタス・ロンダート。兄に代わり、ロンダート家の人間として、死ぬ気で働かせていただきます!」
「死ぬ気で働かれては困るんだが」
「あはははっ」
勢いのあまりに机に額を強くぶつけ、大きなたんこぶを作った姿で後日行政府に出仕したライタスは、ヴィルジールを笑わせた大物として知られる。
◆
ライタス・ロンダート。ロンダート伯爵家の次男であり、社交界からの追放を免れなかった兄に代わり、表舞台に出てきたこの男は、氷帝と呼ばれ恐れられた皇帝・ヴィルジールに気に入られ、のちの史書では寵臣として名を残すことになる。
彼が皇帝に仕え始めて翌年に生まれた皇太子も、その翌年に生まれた皇子も、それから数年後に生まれた皇女も、彼にとてもよく懐いていたという。
数十年後、彼は皇室への忠義を讃えられ、侯爵位を賜ることになる。ヴィルジール自ら贈られた家の名は、オリュザーフォン。国一無欲な侯爵家として名を馳せることとなるのは、まだ先の話だ。


