オヴリヴィオ帝国の舞踏会ではマナーがある。それは、パートナー以外の男性と踊るのは三人まで。または三曲まで、という決まりがあるのだ。
その為、アレクスは焦っていた。
(──まずい。まずい、まずい、まずいっ……!!)
今宵、アレクスが踊りたい人は唯一人。それは帝国の月と称されるこの国で最も高貴な女性──皇后であるルーチェだ。
だが、ルーチェは既に二人と踊っている。一曲目は皇帝の友人であり大貴族に名を連ねるハルメルス辺境伯家の嫡男、ローリエ。そして二人目は、皇帝の弟であるノクスルーネ領の領主・セシル。どちらも皇帝夫妻と親密な間柄だ。
アレクスは握りしめていた手のひらをほどき、深く息を吐ききってから顔を上げた。そうして、ゆっくりとした足取りでルーチェの元へと歩みを進める。
(──次は私だ。ロンダート伯爵家の次期当主である私が、貴女と踊るっ……!)
アレクスは人混みを掻き分け、美しい月へと向かって突き進んだ。
──だが。
「──貴様は誰の許可を経て、近づこうとしている」
低く冷たい声が、アレクスの耳元に落とされる。
その声にアレクスは足を止め、自分の腕を掴む手を辿って顔を上げた。
そこには、頭からすっぽりと黒い外套を羽織っている男の姿があった。口元も布で覆われているため、僅かな隙間から覗く瞳が青いことしか分からない。
「だ、誰だお前はっ……!」
「貴様こそ誰だ」
アレクスは腕を振り払った。今日のために仕立てた衣装にシワができていないか確かめてから、黒衣の男を睨みつける。
「私はアレクス・ロンダート。太陽に月を奪われた男だ!」
太陽と月という単語に、黒衣の男は眉を跳ね上げた。
「奪われたとは?」
「お前には関係ないだろう! いいからそこを退け!」
「断る」
突然現れるなり腕を掴まれ、先へ行くのを阻まれているアレクスは、美しい顔をぐにゃりと歪めた。
「──っ、私は、私はっ……行かねばならんのだ!」
「どこにだ」
「あの方のもとにっ……! 約束を果たさなければならないんだ!」
「それはいつの話だ?」
激昂しているアレクスに、黒衣の男は冷ややかな声で返す。それがアレクスをさらに苛立たせたのか、アレクスは胸元から短剣を取り出すと切先を男へ向けた。
「ええい、そこを退けっ──!!」
短剣を振り回しながら叫び出したアレクスを見て、周囲の人間は悲鳴を上げた。すぐに皇后陛下をお守りせよ、遠ざけよとの声が上がる。
アスランが剣を手にルーチェの傍に駆けつけ、ローリエは隠していた短剣を抜き、セシルとセルカもルーチェを背に庇うように立つ。
半狂乱になりながらとんでもないことをやらかし始めたアレクスを見て、ライタスはエヴァンの腕を掴んで涙声を上げた。
「あ、ああ、あああ! 兄上が!」
「落ち着いてください、ライタス殿」
「落ち着けません! 兄が、兄がっ……なんということを!」
皇后が参加している舞踏会で、貴族の令息が刃物を振り回しているという事態が起きているというのに、エヴァンは観察を続けている。痺れを切らしたライタスは、暴走したアレクスへと向かって駆け出すのだった。
アレクスは無我夢中で剣を振り回していた。たった一つの望みへと続く道を阻む、黒衣の男へと向かって。
黒衣の男はアレクスの剣を軽々と避けていた。ふわりと外套がたなびいた時に、腰に剣が佩いてあるのが見えたが、男には必要ないようだ。
次々と繰り出される剣技をするりするりと避けては、アレクスを挑発するように目を細めている。それがまたアレクスを苛立たせ、暴走させていた。
「──なんだ、もう終わりか?」
やがて疲れ果てたのか、アレクスが片膝をついた。息は乱れ、玉のような汗が額から転げ落ちる。
「……っ、わ、私はっ……」
「貴様の言う約束とやらが何のことかは分からないが、力づくで押し通そうとするのはやめることだな」
「お前に何が分かるっ!」
「分からない。分かろうとも思わないが、自らの手で自分の名を貶めるようなことをしたことは恥じろ」
アレクスは血が滲む勢いで唇を噛み締めながら、黒衣の男の顔を見上げる。青色の瞳は凍てつく海のように冷たいが、怒ってはいないようだった。
アレクスは大貴族が集まる場で、それも皇后が参加している舞踏会で、剣を抜いたというのに──黒衣の男は警備の騎士を呼ぶこともせずに、たった一人で相手をしてきた。
アレクスは手に持っていた短剣を落とした。そうして、改めて黒衣の男を見上げる。
「……お前は、誰だ……?」
消え入りそうな声で問いかけたアレクスに、男は静かに答えた。
「────ジルだ」
「……そう、か。私は、あの日踊ることができなかったあの方と、踊りたかっただけなんだ……」
「ならば剣を抜いて喚き散らす前に、ウィンクルムの花束でも持って挨拶をするべきだったな」
「ウィンクルム……? あんなの、平民の連中が食べているものじゃないか……」
力なく笑ったアレクスに、男はふっと笑って返した。
そこへ、一人の男が泣きながら駆け寄ってくる。
「──兄上っー!! あにうええっ……!」
アレクスの元へと駆け寄ってくるなり、声を上げて泣きながら抱きついてきたのは、アレクスの弟であるライタスだった。
「……ライタス、何故ここに……」
「兄上が……兄上が心配だったからに決まっているでしょうっ!」
ずびずびと鼻を啜りながら、目を真っ赤にさせているライタスを見て、アレクスはポカンと口を開けたまま固まっていた。
だが、すぐに破顔した。
「……そうか。悪かったな……」
似ても似つかない兄弟。目立つ兄と、目立たない弟。出来のいい兄に、出来の悪い弟。そうやって幼い頃から比べられてきたせいか、ライタスは気弱で大人しく、人前で泣くことなど──ましてやこうして駆け寄ってくることなどなかったというのに。
おいおい泣くライタスを見て、アレクスは思うところがあったのか、ゆっくりと息を吐いていった。
◆
「──いやぁ、凄かったわねぇ」
突然刃物を持った不審者が現れたという事態が起き、舞踏会はお開きとなった。いち早く会場を出たルーチェは、ローリエとアスラン、セシル、セルカと共に迎えの馬車を待っている。
「……ええ。皆さんが守っていてくださったので、何が起きていたのかは見えなかったのですが」
ルーチェはセルカの背に視界を覆われていたため、半狂乱になっている男の叫び声が少し耳に入ったくらいで、剣を振り回している姿は見ていないのだ。
「見なくていいわよぉ、あんな変な男なんて」
「そうですよ。ルーチェ様は兄上のことだけ見ていればいいと思います」
「……? は、はいっ……」
ルーチェは何が何なのかわからなかったが、とりあえず微笑んでみた。
そこへ、皇族の紋章が入った馬車が彼らの前に停まった。御者が扉を開けると、中には腕を組んで座っているヴィルジールの姿がある。
「ヴィ、ヴィルジール様っ……?!」
驚くルーチェに、ヴィルジールは薄らと微笑みながら手を差し出した。
「……災難だったな。怪我がなくてよかった」
「ど、どうしてご存知なのですかっ……? それに、私たちはたった今迎えの馬車を呼んだばかりで……」
「……エヴァンの伝書鳥が、報せてきた」
そうなのですね、とルーチェは微笑む。後ろにいるローリエたちは肩を震わせながら笑いを堪えていたが、ルーチェは気づいていないようだった。
「──さて、帰るぞ」
「はいっ……!」
珍しく黒い手袋を嵌めているヴィルジールの手に、レースの手袋を嵌めているルーチェの手が乗る。
走り出した馬車の後ろを追う馬の背に跨るローリエとアスランは、星々が煌めく夜空を見上げながら、共通の友人の話をし始めたのだった。
その為、アレクスは焦っていた。
(──まずい。まずい、まずい、まずいっ……!!)
今宵、アレクスが踊りたい人は唯一人。それは帝国の月と称されるこの国で最も高貴な女性──皇后であるルーチェだ。
だが、ルーチェは既に二人と踊っている。一曲目は皇帝の友人であり大貴族に名を連ねるハルメルス辺境伯家の嫡男、ローリエ。そして二人目は、皇帝の弟であるノクスルーネ領の領主・セシル。どちらも皇帝夫妻と親密な間柄だ。
アレクスは握りしめていた手のひらをほどき、深く息を吐ききってから顔を上げた。そうして、ゆっくりとした足取りでルーチェの元へと歩みを進める。
(──次は私だ。ロンダート伯爵家の次期当主である私が、貴女と踊るっ……!)
アレクスは人混みを掻き分け、美しい月へと向かって突き進んだ。
──だが。
「──貴様は誰の許可を経て、近づこうとしている」
低く冷たい声が、アレクスの耳元に落とされる。
その声にアレクスは足を止め、自分の腕を掴む手を辿って顔を上げた。
そこには、頭からすっぽりと黒い外套を羽織っている男の姿があった。口元も布で覆われているため、僅かな隙間から覗く瞳が青いことしか分からない。
「だ、誰だお前はっ……!」
「貴様こそ誰だ」
アレクスは腕を振り払った。今日のために仕立てた衣装にシワができていないか確かめてから、黒衣の男を睨みつける。
「私はアレクス・ロンダート。太陽に月を奪われた男だ!」
太陽と月という単語に、黒衣の男は眉を跳ね上げた。
「奪われたとは?」
「お前には関係ないだろう! いいからそこを退け!」
「断る」
突然現れるなり腕を掴まれ、先へ行くのを阻まれているアレクスは、美しい顔をぐにゃりと歪めた。
「──っ、私は、私はっ……行かねばならんのだ!」
「どこにだ」
「あの方のもとにっ……! 約束を果たさなければならないんだ!」
「それはいつの話だ?」
激昂しているアレクスに、黒衣の男は冷ややかな声で返す。それがアレクスをさらに苛立たせたのか、アレクスは胸元から短剣を取り出すと切先を男へ向けた。
「ええい、そこを退けっ──!!」
短剣を振り回しながら叫び出したアレクスを見て、周囲の人間は悲鳴を上げた。すぐに皇后陛下をお守りせよ、遠ざけよとの声が上がる。
アスランが剣を手にルーチェの傍に駆けつけ、ローリエは隠していた短剣を抜き、セシルとセルカもルーチェを背に庇うように立つ。
半狂乱になりながらとんでもないことをやらかし始めたアレクスを見て、ライタスはエヴァンの腕を掴んで涙声を上げた。
「あ、ああ、あああ! 兄上が!」
「落ち着いてください、ライタス殿」
「落ち着けません! 兄が、兄がっ……なんということを!」
皇后が参加している舞踏会で、貴族の令息が刃物を振り回しているという事態が起きているというのに、エヴァンは観察を続けている。痺れを切らしたライタスは、暴走したアレクスへと向かって駆け出すのだった。
アレクスは無我夢中で剣を振り回していた。たった一つの望みへと続く道を阻む、黒衣の男へと向かって。
黒衣の男はアレクスの剣を軽々と避けていた。ふわりと外套がたなびいた時に、腰に剣が佩いてあるのが見えたが、男には必要ないようだ。
次々と繰り出される剣技をするりするりと避けては、アレクスを挑発するように目を細めている。それがまたアレクスを苛立たせ、暴走させていた。
「──なんだ、もう終わりか?」
やがて疲れ果てたのか、アレクスが片膝をついた。息は乱れ、玉のような汗が額から転げ落ちる。
「……っ、わ、私はっ……」
「貴様の言う約束とやらが何のことかは分からないが、力づくで押し通そうとするのはやめることだな」
「お前に何が分かるっ!」
「分からない。分かろうとも思わないが、自らの手で自分の名を貶めるようなことをしたことは恥じろ」
アレクスは血が滲む勢いで唇を噛み締めながら、黒衣の男の顔を見上げる。青色の瞳は凍てつく海のように冷たいが、怒ってはいないようだった。
アレクスは大貴族が集まる場で、それも皇后が参加している舞踏会で、剣を抜いたというのに──黒衣の男は警備の騎士を呼ぶこともせずに、たった一人で相手をしてきた。
アレクスは手に持っていた短剣を落とした。そうして、改めて黒衣の男を見上げる。
「……お前は、誰だ……?」
消え入りそうな声で問いかけたアレクスに、男は静かに答えた。
「────ジルだ」
「……そう、か。私は、あの日踊ることができなかったあの方と、踊りたかっただけなんだ……」
「ならば剣を抜いて喚き散らす前に、ウィンクルムの花束でも持って挨拶をするべきだったな」
「ウィンクルム……? あんなの、平民の連中が食べているものじゃないか……」
力なく笑ったアレクスに、男はふっと笑って返した。
そこへ、一人の男が泣きながら駆け寄ってくる。
「──兄上っー!! あにうええっ……!」
アレクスの元へと駆け寄ってくるなり、声を上げて泣きながら抱きついてきたのは、アレクスの弟であるライタスだった。
「……ライタス、何故ここに……」
「兄上が……兄上が心配だったからに決まっているでしょうっ!」
ずびずびと鼻を啜りながら、目を真っ赤にさせているライタスを見て、アレクスはポカンと口を開けたまま固まっていた。
だが、すぐに破顔した。
「……そうか。悪かったな……」
似ても似つかない兄弟。目立つ兄と、目立たない弟。出来のいい兄に、出来の悪い弟。そうやって幼い頃から比べられてきたせいか、ライタスは気弱で大人しく、人前で泣くことなど──ましてやこうして駆け寄ってくることなどなかったというのに。
おいおい泣くライタスを見て、アレクスは思うところがあったのか、ゆっくりと息を吐いていった。
◆
「──いやぁ、凄かったわねぇ」
突然刃物を持った不審者が現れたという事態が起き、舞踏会はお開きとなった。いち早く会場を出たルーチェは、ローリエとアスラン、セシル、セルカと共に迎えの馬車を待っている。
「……ええ。皆さんが守っていてくださったので、何が起きていたのかは見えなかったのですが」
ルーチェはセルカの背に視界を覆われていたため、半狂乱になっている男の叫び声が少し耳に入ったくらいで、剣を振り回している姿は見ていないのだ。
「見なくていいわよぉ、あんな変な男なんて」
「そうですよ。ルーチェ様は兄上のことだけ見ていればいいと思います」
「……? は、はいっ……」
ルーチェは何が何なのかわからなかったが、とりあえず微笑んでみた。
そこへ、皇族の紋章が入った馬車が彼らの前に停まった。御者が扉を開けると、中には腕を組んで座っているヴィルジールの姿がある。
「ヴィ、ヴィルジール様っ……?!」
驚くルーチェに、ヴィルジールは薄らと微笑みながら手を差し出した。
「……災難だったな。怪我がなくてよかった」
「ど、どうしてご存知なのですかっ……? それに、私たちはたった今迎えの馬車を呼んだばかりで……」
「……エヴァンの伝書鳥が、報せてきた」
そうなのですね、とルーチェは微笑む。後ろにいるローリエたちは肩を震わせながら笑いを堪えていたが、ルーチェは気づいていないようだった。
「──さて、帰るぞ」
「はいっ……!」
珍しく黒い手袋を嵌めているヴィルジールの手に、レースの手袋を嵌めているルーチェの手が乗る。
走り出した馬車の後ろを追う馬の背に跨るローリエとアスランは、星々が煌めく夜空を見上げながら、共通の友人の話をし始めたのだった。


