来たる舞踏会の日。濃い藍色のロングドレスに身を包んだルーチェは、到着早々に人々の注目の的となっていた。亡国の聖女から皇帝の唯一の妃である皇后となったルーチェは、今や帝国で一番身分の高い女人である。
月の光のような銀色の髪は後ろで上品に纏められ、ヴィルジールの瞳と同じ色の宝石が輝く小ぶりなティアラを被っているルーチェは、今宵は夜の女神のようであった。
「──アスランさん、オールヴェニス公爵夫妻にご挨拶したいのですが、案内して頂けますか?」
馬車から降りたルーチェの隣に、ヴィルジールの姿はない。護衛として共に来たアスランが、不服そうな顔でため息を吐いていた。
「それは構わないが、なんでまた俺がこんな場所に……」
「デューク卿、皇后陛下の御前でため息を吐かれるなど、無礼ですよ」
ルーチェに続いて馬車から降りたセルカが、淡々とした口調でアスランを嗜める。
セルカはルーチェ専属の侍女であるが、今宵は何故か男物の服を着ていた。城で行われる公式行事の時は使用人の制服を、それ以外ではシンプルなドレスでルーチェの斜め後ろに控えているセルカだが、今はアイスグレーの燕尾服を着ている。その胸元に咲いている青色の造花を見て、アスランはまたため息を吐くのだった。
「悪かったな。俺はこういう場所が嫌いなんだ」
「侯爵家の次期当主が何を仰っているのです」
「そういうお前こそ、その格好は何だ」
アスランがセルカをじろりと睨め付ける。
セルカは胸に手を当てながら一礼すると、ニッと唇の端をつり上げた。
「宰相殿の御命令です。ルーチェ様に悪い虫が寄らないよう、皇帝陛下が到着されるまでお守りせよとのことでしたので」
「ったく、アイツはどうしてそうなるんだ」
やれやれといったふうにアスランは肩を落とすが、セルカは静かに微笑っていた。
「宰相殿のお考えは分かりかねますが、陛下からは特別許可証をいただきましたので、私は私の仕事をするまでです」
セルカは胸元の青い花を一瞥してから、ルーチェに手を差し出す。
女性でありながらすらりと背が高いセルカは、男装姿がとても似合っており、そこらの貴族の子息では太刀打ちできない美青年と化していた。
「さあ、ルーチェ様。私がご案内いたします」
「ありがとうございます、セルカさん」
ルーチェは花が咲いたように笑って、セルカの手を取る。
どうして一介の侍女がオールヴェニス公爵夫妻の顔を知っているんだ、というアスランの呟きは、夜の風に溶け消えた。
ルーチェが会場に足を踏み入れた瞬間、皇后の到着を報せる声がホールに響き渡った。男性は胸に手を当てながら敬礼を、女性はドレスの裾を摘みながら首を垂れ、誰もが皇帝の唯一の妻に敬意を表す。
ルーチェは手を前で重ね合わせながら、面々を見渡してにっこりと微笑んだ。そのままアスランとセルカを伴って主催者であるオールヴェニス公爵夫妻の元へと足を進める。
「お見事でした、ルーチェ様」
「そう、でしょうか」
あれでいいのでしょうか、とルーチェは自信なさげに眉を下げる。
皇后として日々勉強中だが、一番難しいのが皇后としての振る舞いだ。この国で一番身分の高い女性となったルーチェは、ヴィルジール以外の人間に頭を下げてはならないという掟がある。
人一番謙虚なうえ世間に疎いルーチェは、国の母たる者としてのあるべき姿、というものがよく分からないのだ。
だけど、努力はいつか必ず身を結ぶ。それに、頑張ったら頑張った分だけ、褒めて甘やかしてくれる人もいる。だからルーチェは頑張れているのだ。
(──ヴィルジールさま、まだかしら)
ルーチェは急に入った仕事の関係で遅れてやってくるヴィルジールのことを思い浮かべた。
◇
その頃、会場の隅ではルーチェ一行を観察──いや、眺めている者が二人いた。
「──ああああ、セネリオ様! 皇后陛下がどんどん会場の奥にッ……!」
「シッ、静かになさい! ライタス殿!」
ホールの隅にある円柱から顔を覗かせているのは、この国の宰相であるエヴァンと伯爵家の次男坊であるライタスだ。主催者の親族であるライタスは招待客として、よくある燕尾服を着ているが、何故かエヴァンはカツラを被ってドレスまで着ている。似合っていなくはないが、似合っているわけでもない。
「そう言われましても! このままでは、兄上が皇后陛下に近づいてしまいますっ……」
「それを阻止するために、素晴らしい作戦を決行しているのですから! 貴方は黙って見ていなさい!」
その素晴らしい作戦とやらの詳細を知らされないどころか、パートナーとして自分を連れていくよう言われたライタスは、やたら化粧の濃いエヴァンを見て肩を落とした。
あの氷帝の友として二十年、宰相として十年仕えている男ならば、兄を止めてくれるのではないかと思ったが──まさか女装して舞踏会に行くとは。一体どうするつもりなのだろうか。
似合わない金髪のカツラを被りながら、双眼鏡を覗き込んでいるエヴァンを見て、ライタスはがっくりと項垂れた。
──その時。
「ライタス殿ッ! アレクス殿が近づいています!」
「ええ?! は、早く止めないとっ……」
「なりません! ステキプラン紫を決行します!」
「ステキプラン紫って何ですか!?」
慌てふためくライタスの隣で、エヴァンは人差し指でくるりと円を描く。そこからたちまち現れたのは小さな黄緑色の鳥で、するりするりと奥へと飛んでいく。
ステキプラン紫とは、魔法で生み出した鳥を飛ばすことなのだろうか。ルーチェの元へと近づいていくアレクスと鳥を交互に目で追っていたライタスだったが──。
「──やーん、皇后陛下ぁー! ご機嫌よーう!」
突如現れた不敬極まりないド派手な青年を見て、ライタスは息を呑んだ。
月の光のような銀色の髪は後ろで上品に纏められ、ヴィルジールの瞳と同じ色の宝石が輝く小ぶりなティアラを被っているルーチェは、今宵は夜の女神のようであった。
「──アスランさん、オールヴェニス公爵夫妻にご挨拶したいのですが、案内して頂けますか?」
馬車から降りたルーチェの隣に、ヴィルジールの姿はない。護衛として共に来たアスランが、不服そうな顔でため息を吐いていた。
「それは構わないが、なんでまた俺がこんな場所に……」
「デューク卿、皇后陛下の御前でため息を吐かれるなど、無礼ですよ」
ルーチェに続いて馬車から降りたセルカが、淡々とした口調でアスランを嗜める。
セルカはルーチェ専属の侍女であるが、今宵は何故か男物の服を着ていた。城で行われる公式行事の時は使用人の制服を、それ以外ではシンプルなドレスでルーチェの斜め後ろに控えているセルカだが、今はアイスグレーの燕尾服を着ている。その胸元に咲いている青色の造花を見て、アスランはまたため息を吐くのだった。
「悪かったな。俺はこういう場所が嫌いなんだ」
「侯爵家の次期当主が何を仰っているのです」
「そういうお前こそ、その格好は何だ」
アスランがセルカをじろりと睨め付ける。
セルカは胸に手を当てながら一礼すると、ニッと唇の端をつり上げた。
「宰相殿の御命令です。ルーチェ様に悪い虫が寄らないよう、皇帝陛下が到着されるまでお守りせよとのことでしたので」
「ったく、アイツはどうしてそうなるんだ」
やれやれといったふうにアスランは肩を落とすが、セルカは静かに微笑っていた。
「宰相殿のお考えは分かりかねますが、陛下からは特別許可証をいただきましたので、私は私の仕事をするまでです」
セルカは胸元の青い花を一瞥してから、ルーチェに手を差し出す。
女性でありながらすらりと背が高いセルカは、男装姿がとても似合っており、そこらの貴族の子息では太刀打ちできない美青年と化していた。
「さあ、ルーチェ様。私がご案内いたします」
「ありがとうございます、セルカさん」
ルーチェは花が咲いたように笑って、セルカの手を取る。
どうして一介の侍女がオールヴェニス公爵夫妻の顔を知っているんだ、というアスランの呟きは、夜の風に溶け消えた。
ルーチェが会場に足を踏み入れた瞬間、皇后の到着を報せる声がホールに響き渡った。男性は胸に手を当てながら敬礼を、女性はドレスの裾を摘みながら首を垂れ、誰もが皇帝の唯一の妻に敬意を表す。
ルーチェは手を前で重ね合わせながら、面々を見渡してにっこりと微笑んだ。そのままアスランとセルカを伴って主催者であるオールヴェニス公爵夫妻の元へと足を進める。
「お見事でした、ルーチェ様」
「そう、でしょうか」
あれでいいのでしょうか、とルーチェは自信なさげに眉を下げる。
皇后として日々勉強中だが、一番難しいのが皇后としての振る舞いだ。この国で一番身分の高い女性となったルーチェは、ヴィルジール以外の人間に頭を下げてはならないという掟がある。
人一番謙虚なうえ世間に疎いルーチェは、国の母たる者としてのあるべき姿、というものがよく分からないのだ。
だけど、努力はいつか必ず身を結ぶ。それに、頑張ったら頑張った分だけ、褒めて甘やかしてくれる人もいる。だからルーチェは頑張れているのだ。
(──ヴィルジールさま、まだかしら)
ルーチェは急に入った仕事の関係で遅れてやってくるヴィルジールのことを思い浮かべた。
◇
その頃、会場の隅ではルーチェ一行を観察──いや、眺めている者が二人いた。
「──ああああ、セネリオ様! 皇后陛下がどんどん会場の奥にッ……!」
「シッ、静かになさい! ライタス殿!」
ホールの隅にある円柱から顔を覗かせているのは、この国の宰相であるエヴァンと伯爵家の次男坊であるライタスだ。主催者の親族であるライタスは招待客として、よくある燕尾服を着ているが、何故かエヴァンはカツラを被ってドレスまで着ている。似合っていなくはないが、似合っているわけでもない。
「そう言われましても! このままでは、兄上が皇后陛下に近づいてしまいますっ……」
「それを阻止するために、素晴らしい作戦を決行しているのですから! 貴方は黙って見ていなさい!」
その素晴らしい作戦とやらの詳細を知らされないどころか、パートナーとして自分を連れていくよう言われたライタスは、やたら化粧の濃いエヴァンを見て肩を落とした。
あの氷帝の友として二十年、宰相として十年仕えている男ならば、兄を止めてくれるのではないかと思ったが──まさか女装して舞踏会に行くとは。一体どうするつもりなのだろうか。
似合わない金髪のカツラを被りながら、双眼鏡を覗き込んでいるエヴァンを見て、ライタスはがっくりと項垂れた。
──その時。
「ライタス殿ッ! アレクス殿が近づいています!」
「ええ?! は、早く止めないとっ……」
「なりません! ステキプラン紫を決行します!」
「ステキプラン紫って何ですか!?」
慌てふためくライタスの隣で、エヴァンは人差し指でくるりと円を描く。そこからたちまち現れたのは小さな黄緑色の鳥で、するりするりと奥へと飛んでいく。
ステキプラン紫とは、魔法で生み出した鳥を飛ばすことなのだろうか。ルーチェの元へと近づいていくアレクスと鳥を交互に目で追っていたライタスだったが──。
「──やーん、皇后陛下ぁー! ご機嫌よーう!」
突如現れた不敬極まりないド派手な青年を見て、ライタスは息を呑んだ。


