それは、ある日の昼下がりのこと。
「──ヴィルジールさま、お願いがあるのです」
ヴィルジールは山積みの書類から顔を上げ、目の先に立っているルーチェへ目を向けた。手元にはヴィルジールの判を待つ書類が積まれているが、大至急の案件ならばエヴァンが早朝に持ってくる手筈となっている。つまりこれらは後回しにしても問題ないものだ。
ルーチェが直々に仕事中のヴィルジールを訪ねてきたことだけでも驚くべきことだが、そうまでして叶えたいことがあるようだ。いや、叶えてほしいことと言うべきだろうか。
「何だ」
「この招待状なのですが……」
ルーチェはいそいそと懐から一枚の封筒を取り出した。封には赤色の薔薇の花の印章が押されている。それを目にするのは年に数回程度だが、由緒ある大家族のものだ。
「……オールヴェニス公爵か」
ヴィルジールが答えると、ルーチェは瞳を輝かせた。
「ヴィルジールさまは一目見ただけで、どこの家のものかお分かりになるのですねっ……!」
当たり前だろう、とヴィルジールは返す。だがルーチェにとってはそうではないようで、まだ貴族の名簿の半数も覚えられていないと肩を竦めていた。
「……それで、お願いとやらは、招待状に関係することか?」
「はいっ! 公爵夫人が、私とヴィルジールさまを舞踏会に招待したいそうなのです」
ルーチェは手に持っていた招待状をヴィルジールに差し出す。それを受け取ったヴィルジールは眉一つ動かすことなく、そこに記されている文面に目を通した。
書き出しはありきたりな季節の挨拶から始まり、自領で採れたものを城に送った旨と舞踏会の日時が書かれていた。どうやら夫妻の孫のデビュタントのために開くらしく、可愛らしい押し花も同封されている。
「……気は乗らないが、いいだろう」
ヴィルジールは人が集まる場が好きではないが、自分も行かなければルーチェが一人で行くことになってしまう。社交ダンスだけは何故か上達できないルーチェは、ヴィルジール以外の人間とはまともに踊れやしないのだ。
──本人には言わないが。
「ありがとうございますっ……!」
ルーチェは満面の笑みを浮かべながら、セルカを伴って執務室から出て行った。
◆
執務室の扉が閉まると、今まで黙っていたエヴァンがわざとらしい咳払いをした。ルーチェの前では言えないことか、いつもの小言を言いたいかのどちらかだろう。
「──もしもし陛下。大変申し上げにくいことがあるのですが」
どうやら後者の方だ。
ヴィルジールはボツになった事案が書かれている紙をくしゃくしゃに丸め、エヴァンに向かって投げつけた。
「言い辛いのなら黙っていろ。そしてそのまま回れ右をして出ていけ」
「痛い! それに酷いです!」
たかが紙切れを丸めたものが頭部に当たっただけだというのに、エヴァンは両手で頭を押さえながら涙目になっている。無意識のうちに紙を凍らせていたのか、エヴァンが大袈裟なのか。
ヴィルジールはため息を一つ吐いてから、エヴァンに向き直った。
「それで、申し上げにくいこととやらは何だ。早く言え」
「……あのですね、ルーチェ様は陛下に嫁いでから人前で踊っておりません。もちろん、公務の合間に教育の一環として、社交ダンスの練習はしていますけれども」
「それがどうした」
「残念なことにですね、まっっったく上達されていないのです。嫁がれる前から」
ヴィルジールはエヴァンから視線を外し、今しがたルーチェが立っていた場所へと目を動かす。踊れないというのに、舞踏会に参加したいと言ったのは今日が初めてのことではない。そのために必要な特訓もしているが、どうにも相性が悪いのか、或いは不向きなのか──ルーチェは社交ダンスが下手なのだ。
つまり、エヴァンはこう言いたいのだろう。ルーチェの願いを叶えてあげたいと思うのは素敵なことだが、いまだに上手く踊れない彼女を、よりにもよって名だたる公爵家が主催する舞踏会に連れて行って大丈夫なのか、と。
(──確かに、ルーチェはまともに踊れやしないが)
「陛下、本当にルーチェ様と行かれるのですか?」
「お前は馬鹿か?」
何のことかと、エヴァンがぱちくりと瞬きをする。
ヴィルジールは口の端を少しだけ吊り上げた。
「踊れないのなら、踊らせればいいだけのことだろう」
ステップが踏めないのなら、踏ませてあげればいい。つま先を動かす先を本人に決めさせるのではなく、パートナーである自分が導けばいいだけのことなのだ。
「……やだ、なんか陛下がかっこいい」
「くだらないことを言っている暇があるなら仕事をしろ」
「陛下こそ! 机の上を綺麗に片付けてから、舞踏会に行ってくださいね?」
「誰にものを言っている」
ヴィルジールはふっと口元を緩めると、手を合わせながら感激しているエヴァンの肩に手を置き、少し休憩してくると声をかけて執務室を出て行った。
「──ヴィルジールさま、お願いがあるのです」
ヴィルジールは山積みの書類から顔を上げ、目の先に立っているルーチェへ目を向けた。手元にはヴィルジールの判を待つ書類が積まれているが、大至急の案件ならばエヴァンが早朝に持ってくる手筈となっている。つまりこれらは後回しにしても問題ないものだ。
ルーチェが直々に仕事中のヴィルジールを訪ねてきたことだけでも驚くべきことだが、そうまでして叶えたいことがあるようだ。いや、叶えてほしいことと言うべきだろうか。
「何だ」
「この招待状なのですが……」
ルーチェはいそいそと懐から一枚の封筒を取り出した。封には赤色の薔薇の花の印章が押されている。それを目にするのは年に数回程度だが、由緒ある大家族のものだ。
「……オールヴェニス公爵か」
ヴィルジールが答えると、ルーチェは瞳を輝かせた。
「ヴィルジールさまは一目見ただけで、どこの家のものかお分かりになるのですねっ……!」
当たり前だろう、とヴィルジールは返す。だがルーチェにとってはそうではないようで、まだ貴族の名簿の半数も覚えられていないと肩を竦めていた。
「……それで、お願いとやらは、招待状に関係することか?」
「はいっ! 公爵夫人が、私とヴィルジールさまを舞踏会に招待したいそうなのです」
ルーチェは手に持っていた招待状をヴィルジールに差し出す。それを受け取ったヴィルジールは眉一つ動かすことなく、そこに記されている文面に目を通した。
書き出しはありきたりな季節の挨拶から始まり、自領で採れたものを城に送った旨と舞踏会の日時が書かれていた。どうやら夫妻の孫のデビュタントのために開くらしく、可愛らしい押し花も同封されている。
「……気は乗らないが、いいだろう」
ヴィルジールは人が集まる場が好きではないが、自分も行かなければルーチェが一人で行くことになってしまう。社交ダンスだけは何故か上達できないルーチェは、ヴィルジール以外の人間とはまともに踊れやしないのだ。
──本人には言わないが。
「ありがとうございますっ……!」
ルーチェは満面の笑みを浮かべながら、セルカを伴って執務室から出て行った。
◆
執務室の扉が閉まると、今まで黙っていたエヴァンがわざとらしい咳払いをした。ルーチェの前では言えないことか、いつもの小言を言いたいかのどちらかだろう。
「──もしもし陛下。大変申し上げにくいことがあるのですが」
どうやら後者の方だ。
ヴィルジールはボツになった事案が書かれている紙をくしゃくしゃに丸め、エヴァンに向かって投げつけた。
「言い辛いのなら黙っていろ。そしてそのまま回れ右をして出ていけ」
「痛い! それに酷いです!」
たかが紙切れを丸めたものが頭部に当たっただけだというのに、エヴァンは両手で頭を押さえながら涙目になっている。無意識のうちに紙を凍らせていたのか、エヴァンが大袈裟なのか。
ヴィルジールはため息を一つ吐いてから、エヴァンに向き直った。
「それで、申し上げにくいこととやらは何だ。早く言え」
「……あのですね、ルーチェ様は陛下に嫁いでから人前で踊っておりません。もちろん、公務の合間に教育の一環として、社交ダンスの練習はしていますけれども」
「それがどうした」
「残念なことにですね、まっっったく上達されていないのです。嫁がれる前から」
ヴィルジールはエヴァンから視線を外し、今しがたルーチェが立っていた場所へと目を動かす。踊れないというのに、舞踏会に参加したいと言ったのは今日が初めてのことではない。そのために必要な特訓もしているが、どうにも相性が悪いのか、或いは不向きなのか──ルーチェは社交ダンスが下手なのだ。
つまり、エヴァンはこう言いたいのだろう。ルーチェの願いを叶えてあげたいと思うのは素敵なことだが、いまだに上手く踊れない彼女を、よりにもよって名だたる公爵家が主催する舞踏会に連れて行って大丈夫なのか、と。
(──確かに、ルーチェはまともに踊れやしないが)
「陛下、本当にルーチェ様と行かれるのですか?」
「お前は馬鹿か?」
何のことかと、エヴァンがぱちくりと瞬きをする。
ヴィルジールは口の端を少しだけ吊り上げた。
「踊れないのなら、踊らせればいいだけのことだろう」
ステップが踏めないのなら、踏ませてあげればいい。つま先を動かす先を本人に決めさせるのではなく、パートナーである自分が導けばいいだけのことなのだ。
「……やだ、なんか陛下がかっこいい」
「くだらないことを言っている暇があるなら仕事をしろ」
「陛下こそ! 机の上を綺麗に片付けてから、舞踏会に行ってくださいね?」
「誰にものを言っている」
ヴィルジールはふっと口元を緩めると、手を合わせながら感激しているエヴァンの肩に手を置き、少し休憩してくると声をかけて執務室を出て行った。


