それはとある日のこと。

「──ルーチェが熱を出しただと?」

 執務室で仕事に追われていたヴィルジールは、セルカからの報告を聞いて顔を跳ね上げた。セルカが執務室を訪れたことだけでも驚きだが、ルーチェが熱を出したとは一大事である。

「はい。お疲れが溜まったのではないかと」

「……この頃無理をさせていたからな」

 ヴィルジールは短い溜め息を吐くと、手に持っていたペンを置いて立ち上がった。

 ヴィルジールがルーチェと夫婦になってから、早ひと月。ヴィルジールの生活は特に変わりはないが、皇后になったルーチェは多忙な日々を送っていた。

 ルーチェは他国で生まれ育った為、この国の文化に疎い。貴族の社交場での基礎的な礼儀作法はこれまでの努力もあり、何とか形になっているが、皇后として必要な知識を得るために勉強をしたり社交界に出たりと、忙しない日々が続いていた。

「……こういう時、何をしたらルーチェは喜ぶ?」

 セルカは無表情のまま瞬きを繰り返した。それは侍女であるセルカより、夫であるヴィルジールの方が知っているのではないだろうか。

「……恐れながら、陛下」

「何だ」

「この世で陛下以上にルーチェ様のことを知る方はおりますでしょうか」

「……夫だからといって、何でもかんでも知っているわけではない」

 ヴィルジールは前髪を掻き上げながら呟くと、じろりとセルカを睨みつける。

 セルカは「それならば」と淡々とした口調で、ある提案をしたのだった。



「──こ、ここ、皇帝陛下ッ!?」

 突然厨房に現れたヴィルジールを、料理長のアランは信じられないものを見るような反応で出迎えた。すぐにコック帽を下げ、深々と頭を下げる。

「こ、皇帝陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう……!」

「大至急、力を借してくれないか」

「な、なんと……! 私で力になれるのでしたら、何でも致します!!」

 アランがコック帽を被り直すと、ヴィルジールの口の端に笑みが滲んだ。その表情を見たアランの目は、これでもかと言うくらいに見開かれていく。

 アランら使用人にとって、ヴィルジールは雲の上の存在だ。姿を間近で見ることが叶うのは年に片手で数えるほどで、ましてや笑っている顔を見たことなんて、一度もないと言っても過言ではない。

 ──機嫌を損ねたら、氷の塊にされる。即位以来そんな噂が絶えなかった人物だが、今アランの目の前にいるヴィルジールはとても柔らかい表情をしていた。

「ルー……皇后が病で臥せっているから、食べやすいものを持っていってやりたいんだが。俺でも作れるものはあるか?」

「……こ、皇帝陛下がお作りになられるのですか!?」

 返事の代わりに、ヴィルジールはシャツの袖を捲った。ボタンを外し、首元のタイを緩める仕草すら様になっているヴィルジールを前に、アランは口をあんぐりと開けたまま固まっていたのだが──。

「何を呆けている。……早く手の洗い方から教えろ」

「は、はいっ」

 ヴィルジールにじろりと睨まれたので、アランは慌てて動き出したのだった。



「──お加減は如何ですか。ルーチェ様」

 その声で、閉じていたまぶたを持ち上げると、目の前には心配そうな顔をしているセルカの姿があった。

 ルーチェは軽く咳き込みながら、小さく頷き返す。

「……ごめんなさい。冬の行事も近いのに」

「公務のことなど今はどうでも良いのです。何か食べられそうですか?」

 ルーチェは苦しそうに呼吸をしながら、首を左右に振った。

 体調が第一だからと、問答無用でベッドに寝かされてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 窓の外を見遣ると、空は薄暗い色をしている。どうやらほぼ一日寝てしまっていたようだ。

(……熱を出すなんて、わたしは駄目ね)

 ルーチェはセルカの手を借りて、ゆっくりと身体を起こした。汗でぐっしょりと濡れた服を取り替えるために、着ていたものを脱いでいると、部屋のドアが叩かれる音が鳴った。

「──ルーチェ、俺だ。入ってもいいか」

 ドアの向こうからは、ヴィルジールの声が聞こえた。

 ルーチェは暖かいタオルに埋めていた顔を上げ、セルカの顔を見てから、必死に首を左右に振った。

 今開けられてはだめだ。ルーチェは今、上の服を着ていないのだから。

「だ、だめ、です……! セルカさっ……止めてくださ」

「承知いたしました」

 セルカが素早い動きで部屋のドア前へと向かう。間に合わずにドアが開けられる音がしたが、セルカが勢いよく閉め返してくれていた。

「なりません! 陛下、少々お待ちくださいませ」

「……この城で俺が開けてはいけない部屋は一つもないんだが」

「ルーチェ様は今、お着替えをなさっておいでです」

「問題ないだろう。相手は俺なのだから」

「そういう問題ではございません」

「どういう問題だ。夫が妻の部屋を訪ねることに、何の問題がある?」

「乙女心の問題にございます」

 セルカが身を挺してヴィルジールを止めてくれている間に、ルーチェは大慌てで着替えた。お陰でボタンを掛け間違えてしまったが、もう直す時間はない。

 ルーチェは毛布を胸元まで引っ張り上げ、これで誤魔化すことに決めた。

「セルカさん……もう、良いですよ」

「入るぞ」

 セルカが頷くと同時に、部屋の扉が勢いよく開けられる。現れたヴィルジールは急いで来たのか、肩で息をしていた。そのうえ、何やら良い匂いがする物を持っている。

「具合はどうだ」

 ヴィルジールは大股でルーチェの元へ駆け寄ると、手に持っていた物をサイドテーブルに置いて、ルーチェの額に手を添えた。

「も、もう……大丈夫、ですからっ……」

「大丈夫じゃないだろう。顔が真っ赤だ」

 それはヴィルジールのせいだ、と言い返したかったが、咳が出て声を出せなかった。

 苦しそうに咳き込むルーチェの背に、ヴィルジールの大きな手が添えられる。彼は子供をあやすような手つきでルーチェの背を摩ると、ゆっくりと息を吐いた。

「このところ無理をさせすぎた。……食欲がなくても食べられるものを持ってきたから、喉を通りそうなら食べろ」

 ルーチェは涙目になりながら、ヴィルジールが持ってきてくれたトレーを覗き込んだ。そこにはほかほかと温かい、良い匂いがする何かが入っている。

「……これ、は……?」

 お椀には、赤に黄、緑と彩豊かな食材が入っていた。どれも食べやすいように一口サイズで切られているが、大きさや切り方が不揃いだ。これが何という料理なのかは分からないが、匂いはとても良い。

「……ウィンクルムの根を煎じたものと、栄養価の高い果物や野菜を煮込んだものだ。料理長に味見をさせたから、問題はないと思うが」

「ヴィ、ヴィルジールさまが、作ってくださったのですか……?!」

 ルーチェは花開くように顔を綻ばせ、瞳を輝かせながらヴィルジールの顔を見上げる。

「……そうだが」

「嬉しいです、ヴィルジールさまの手作りなんて……!」

 ルーチェはきゃっきゃと手を叩きながら喜ぶ。その姿を見て、ヴィルジールは表情を緩めると、お椀とスプーンを手に取った。そして一口掬い取り、ルーチェの口元へと運ぶ。

「……口を開けろ」

 ルーチェは丸い目をさらに大きくさせた。

「……じ、自分で食べられます」

「病人が何を言っている」

「そ、それに……セルカさんも居ますから」

 ルーチェはちらっとセルカへ目を遣る。頼む、そのままそこに居てくれ、と思いながらセルカの目を見つめていたのだが、セルカはふっと微笑うと頭を下げた。

「──私は失礼いたします。どうぞお熱い夜を」

「セ、セルカさんっ……?!」

 なんと、セルカは足音も立てずに素早く部屋から出ていってしまった。

 残されたルーチェは、目の前に迫るヴィルジールの顔とスプーンを交互に見て、観念して口を開いた。

 つるんとした食感の果物が口の中に入る。噛まずとも飲み込める柔らかさのそれは、赤い見た目に反してとても優しい味をしており、するすると喉を通っていった。

 次に口の中に入れられたものは、ルーチェの好きな味だった。甘みと酸味が絶妙な、果物でもあり野菜でもある、あの食べ物だ。

 まるで親鳥が雛鳥に餌を与えるかのように、ヴィルジールはルーチェの口に食事を運んでいく。初めは気恥ずかしく、何かの罰なのではと思わざるを得なかったが、ヴィルジールが自ら作ってくれた病人食はとても美味しく、ルーチェの心も身体も温めたのだった。

「──味は」

 食べ終えると、ヴィルジールは至極真面目な顔つきで感想を求めてきた。エヴァンに食事の感想を求められた時は、そんなくだらないことを聞くな、と返していたあのヴィルジールがだ。

「とても、おいしかったです」

 ルーチェはにこにこと笑って答えた。熱のせいで顔はまだ赤いが、今朝と比べると顔色は随分良くなっている。

「そうか、ならいい。……それはそうと、一つ気になっていたことがあるんだが」

 ヴィルジールの目が、ルーチェの目からルーチェの胸元へと動く。彼に倣うようにしてルーチェはそこに視線を落とし、そして固まった。

 なんと、毛布がずり落ちてしまっている。

「な、わ、わわ、わっ……!」

 ルーチェは慌てて毛布を引っ張り上げた。

 ボタンを掛け間違えていることを隠すために、毛布で隠していたというのに──ヴィルジールの手作りの食事に気を取られて、すっかり忘れてしまっていたようだ。

「まさかそのまま寝るのか?」

「な、直します……! ヴィルジールさまが戻られた後にっ……」

「病人が何を言っている。……俺が直そう」

「なっ……えっっ……?!」

 ヴィルジールの手が伸びてくる。熱で力の入らないルーチェの手と毛布を退けると、見事にズレている胸元のボタンを器用に外していった。

 ひとつ、ふたつ。そして三つ。

 四つ目のボタンに指先が触れた時、ルーチェは恥ずかしさに耐えられず、ベッドに倒れ込んだ。

 ぽすりと沈んだルーチェを見て、ヴィルジールは薄く微笑った。

「……続きをしてほしいのか?」

「も、もうっ……それ以上触ったら口を利きませんからっ……!」

 ルーチェは顔を真っ赤に染め上げながら、ヴィルジールの腕や手を全力で叩く。だがその攻撃は、ヴィルジールには痛くも痒くもなかったようで──。

「なら、身体を拭いてやろう」

「────っ?!」

 ルーチェの熱はさらに上がっていった。無論、言うことを聞かないヴィルジールのせいで。