オヴリヴィオ帝国、首都ソルビスタ。帝国を代表する大都市に青い花々が舞ったのは、初冬を真近に控えた晴天の日のことだった。
その日は連日の雨が嘘だったかのように晴れ渡り、空は雲一つなく澄み渡っていた。空を仰ぐエヴァンの瞳には、どこまでも続いている青い空が映り込んでいる。
エヴァンは大きく深呼吸をしてから、皇城の北側にある聖堂へと向かって歩き出した。
▼
「──これより、オヴリヴィオ帝国皇帝・ヴィルジール陛下の婚姻式を執り行います」
ヴィルジールとルーチェの結婚式──皇帝の婚姻式及び皇后の即位式の司会進行役を務めたのは、現宰相であるエヴァンだった。
エヴァンはいつもの微笑みを飾りながら、晴れやかな声を聖堂に響かせていく。
聖堂の扉がゆっくりと開かれる。
大きく開かれた扉の向こうでは、美しいウェディングドレスに身を包んだルーチェが、緊張した面差しで立っていた。
「──偉大なる帝国の太陽の元に、月をお連れください」
エヴァンの合図で、聖堂の中央に立つヴィルジールがルーチェを振り返る。今この時、初めてルーチェのドレス姿を見たヴィルジールは、宝石のように美しい目を瞬かせていた。
「──さあ、行こうか」
ファルシがルーチェへ手を差し伸べる。帝国の婚姻式では、花嫁の父親が新郎の元まで連れて行くというのが慣わしだったが、ルーチェは生まれた家の名も家族のことも憶えていない。家族と引き離されて神殿に連れ去られた時に、神官たちが何かを施していたのか、その記憶だけは今も戻っていない。
そんなルーチェのために、ファルシが新婦の父親役を引き受けてくれたのだ。
ルーチェはファルシの手を取り、小さく頷いてから、ヴィルジールの元へ向かって歩き出した。
「──ご覧になって。なんて素敵なドレスなのかしら」
「──ティアラもよ。海色と菫色の宝石が輝いて……」
客席から見ていた貴族の女性が、ゆったりとした足取りで進むルーチェの姿を見て感嘆の息を漏らす。
ウェディングドレスには小さな透明の宝石が散りばめられていて、光を受ける度にきらきらと輝き、頭上で煌めくティアラにはヴィルジールとルーチェの瞳の色の宝石があしらわれ、神秘的な煌めきを放っている。
ルーチェの美しさに、参列者たちの目は釘付けだ。
「──お妃様はとても美しい御方ね。何の後ろ盾もないと聞いていたけれど、あの美しさなら納得だわ」
「──あら、貴女知らないの? お妃様は隣国の元聖女様で、皇帝陛下の命の恩人だそうよ」
だから妃に選ばれたのかしら──と、顔を見合わせながら話をしていた貴婦人たちが、花婿の元へと歩く花嫁に視線を戻す。そこで彼女たちは、信じられないものを目にした。
「──わ、わ、わわっ……!!」
「──しっ、静かになさい!」
「──だ、だって……」
なんと、ファルシを伴って歩いていたルーチェがヴィルジールの元に着くと、ヴィルジールが微笑を飾りながら手を差し出していたのだ。その美しい微笑みを見て、思わず悲鳴に近い声を上げたのは彼女たちだけではない。
「な、なんと……! 陛下が優しい御顔を!」
「美しい皇帝夫妻の誕生だな!」
「皇帝陛下、皇后陛下、万歳ッ!!」
挙式の最中だというのに、参列していた貴族たちが次々と立ち上がり、盛大な拍手を贈りながら祝福の言葉を口にしていく。
進行を妨げられたエヴァンは、慌てて声を上げようとしたのだが──。
「──エヴァン。そのままで構わない」
「し、しかし……」
祝福の嵐が巻き起こり、皇帝の婚姻式が中断されかけている。それはあってはならないことであり、本来ならば騒いでいる者を即刻聖堂の外へと放り出し、牢に入れるべきなのだが。
ヴィルジールは薄らと微笑みながら、ルーチェが重ねた手を握り返すと、そのまま自分の方へと引き寄せた。
歓声の雨は止まないが、ヴィルジールは構わず続けるようだ。そんなヴィルジールを見て、ファルシは苦笑を浮かべながら胸に手を当て、優雅に一礼をした。
「私の愛する家族を、どうかよろしく頼みます」
「……ああ」
ヴィルジールとファルシが見つめ合い、それからふたりの眼差しはルーチェへ注がれる。
ルーチェは目を潤ませながら、この上なく美しい微笑みを飾った。
◆
貴族と親族のみが参列を許された聖堂での婚姻式が終わると、城のホールで皇后の即位式が執り行われた。
二人はお揃いの青色の衣装に着替えると、先代たちと同じ儀式を行った。玉座の前で深々と首を垂れたルーチェの頭に、皇帝であるヴィルジールが皇后の冠を被せたのである。
まるで一枚の絵画のように美しいその場面は、参列者たちの記憶に深く刻みつけられたことだろう。
その後、ヴィルジールとルーチェは民衆の前に姿を見せるために、馬車に乗って城下へと向かった。
これはエヴァンが提案したパレードと呼ばれるものである。従来ならば、テラスから姿を現して、微笑みながら手を振るだけで終わるが、それではつまらないからとエヴァンが言い出したのだ。これにルーチェが賛同し、アスランら騎士団の協力を得て行われることになった。
市井で生活している民が皇帝の姿を見ることができるのは、年に一度の秋の収穫祭か、特別な祭典しかない。それも、遠目から一目見ることができたら幸運だと言われるくらいである。
現皇帝であるヴィルジールは冷酷で無慈悲な男であり、氷帝と呼ばれていることは誰もが知っている。そんな存在であるヴィルジールがルーチェと共に民衆の前に姿を見せたところで、何も特別なことは起こりやしないとヴィルジールは思っていたのだが──。
「──見てください、ヴィルジールさま。花がたくさんっ……!」
ヴィルジールとルーチェが城門を出ると、長い列がふたりを出迎えた。なんと、民が行列を作っていたのである。彼らは花を手向けながら、お祝いの言葉やヴィルジールへの感謝を述べていた。
「──皇帝陛下! 皇后陛下! おめでとうございます!!」
「──ヴィルジール皇帝陛下! ルーチェ皇后陛下! 万歳!」
「──皇帝陛下のお陰で、冬を越せない民はいなくなりました!」
「──へいか、ぼくは字が書けるようになりましたよっ!」
民衆からの温かい歓迎と花の嵐は、ヴィルジールをとても驚かせたようで。
以前馬車で同じ道を通った時は、ヴィルジールはにこりともしていなかったが、今はこぼれるように顔を綻ばせていた。
パレードが終わると、近親者のみを集めた食事会が開かれた。参加者は王族であるセシル、エヴァンと先代宰相のセデン、アスランの家族であるデューク侯爵家、そしてノエルとファルシである。
ルーチェを驚かせるために、ヴィルジールが料理長に作らせた塔のような見た目のケーキは、甘い物が好きなルーチェを感動させた。
夜間にはノエルの魔法で空から四色の光が降り注ぎ、翌朝には神秘的な虹が空に架かり、この日は皇帝夫妻だけでなく、首都にいた人々も忘れられない一日となったのだった。
その日は連日の雨が嘘だったかのように晴れ渡り、空は雲一つなく澄み渡っていた。空を仰ぐエヴァンの瞳には、どこまでも続いている青い空が映り込んでいる。
エヴァンは大きく深呼吸をしてから、皇城の北側にある聖堂へと向かって歩き出した。
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「──これより、オヴリヴィオ帝国皇帝・ヴィルジール陛下の婚姻式を執り行います」
ヴィルジールとルーチェの結婚式──皇帝の婚姻式及び皇后の即位式の司会進行役を務めたのは、現宰相であるエヴァンだった。
エヴァンはいつもの微笑みを飾りながら、晴れやかな声を聖堂に響かせていく。
聖堂の扉がゆっくりと開かれる。
大きく開かれた扉の向こうでは、美しいウェディングドレスに身を包んだルーチェが、緊張した面差しで立っていた。
「──偉大なる帝国の太陽の元に、月をお連れください」
エヴァンの合図で、聖堂の中央に立つヴィルジールがルーチェを振り返る。今この時、初めてルーチェのドレス姿を見たヴィルジールは、宝石のように美しい目を瞬かせていた。
「──さあ、行こうか」
ファルシがルーチェへ手を差し伸べる。帝国の婚姻式では、花嫁の父親が新郎の元まで連れて行くというのが慣わしだったが、ルーチェは生まれた家の名も家族のことも憶えていない。家族と引き離されて神殿に連れ去られた時に、神官たちが何かを施していたのか、その記憶だけは今も戻っていない。
そんなルーチェのために、ファルシが新婦の父親役を引き受けてくれたのだ。
ルーチェはファルシの手を取り、小さく頷いてから、ヴィルジールの元へ向かって歩き出した。
「──ご覧になって。なんて素敵なドレスなのかしら」
「──ティアラもよ。海色と菫色の宝石が輝いて……」
客席から見ていた貴族の女性が、ゆったりとした足取りで進むルーチェの姿を見て感嘆の息を漏らす。
ウェディングドレスには小さな透明の宝石が散りばめられていて、光を受ける度にきらきらと輝き、頭上で煌めくティアラにはヴィルジールとルーチェの瞳の色の宝石があしらわれ、神秘的な煌めきを放っている。
ルーチェの美しさに、参列者たちの目は釘付けだ。
「──お妃様はとても美しい御方ね。何の後ろ盾もないと聞いていたけれど、あの美しさなら納得だわ」
「──あら、貴女知らないの? お妃様は隣国の元聖女様で、皇帝陛下の命の恩人だそうよ」
だから妃に選ばれたのかしら──と、顔を見合わせながら話をしていた貴婦人たちが、花婿の元へと歩く花嫁に視線を戻す。そこで彼女たちは、信じられないものを目にした。
「──わ、わ、わわっ……!!」
「──しっ、静かになさい!」
「──だ、だって……」
なんと、ファルシを伴って歩いていたルーチェがヴィルジールの元に着くと、ヴィルジールが微笑を飾りながら手を差し出していたのだ。その美しい微笑みを見て、思わず悲鳴に近い声を上げたのは彼女たちだけではない。
「な、なんと……! 陛下が優しい御顔を!」
「美しい皇帝夫妻の誕生だな!」
「皇帝陛下、皇后陛下、万歳ッ!!」
挙式の最中だというのに、参列していた貴族たちが次々と立ち上がり、盛大な拍手を贈りながら祝福の言葉を口にしていく。
進行を妨げられたエヴァンは、慌てて声を上げようとしたのだが──。
「──エヴァン。そのままで構わない」
「し、しかし……」
祝福の嵐が巻き起こり、皇帝の婚姻式が中断されかけている。それはあってはならないことであり、本来ならば騒いでいる者を即刻聖堂の外へと放り出し、牢に入れるべきなのだが。
ヴィルジールは薄らと微笑みながら、ルーチェが重ねた手を握り返すと、そのまま自分の方へと引き寄せた。
歓声の雨は止まないが、ヴィルジールは構わず続けるようだ。そんなヴィルジールを見て、ファルシは苦笑を浮かべながら胸に手を当て、優雅に一礼をした。
「私の愛する家族を、どうかよろしく頼みます」
「……ああ」
ヴィルジールとファルシが見つめ合い、それからふたりの眼差しはルーチェへ注がれる。
ルーチェは目を潤ませながら、この上なく美しい微笑みを飾った。
◆
貴族と親族のみが参列を許された聖堂での婚姻式が終わると、城のホールで皇后の即位式が執り行われた。
二人はお揃いの青色の衣装に着替えると、先代たちと同じ儀式を行った。玉座の前で深々と首を垂れたルーチェの頭に、皇帝であるヴィルジールが皇后の冠を被せたのである。
まるで一枚の絵画のように美しいその場面は、参列者たちの記憶に深く刻みつけられたことだろう。
その後、ヴィルジールとルーチェは民衆の前に姿を見せるために、馬車に乗って城下へと向かった。
これはエヴァンが提案したパレードと呼ばれるものである。従来ならば、テラスから姿を現して、微笑みながら手を振るだけで終わるが、それではつまらないからとエヴァンが言い出したのだ。これにルーチェが賛同し、アスランら騎士団の協力を得て行われることになった。
市井で生活している民が皇帝の姿を見ることができるのは、年に一度の秋の収穫祭か、特別な祭典しかない。それも、遠目から一目見ることができたら幸運だと言われるくらいである。
現皇帝であるヴィルジールは冷酷で無慈悲な男であり、氷帝と呼ばれていることは誰もが知っている。そんな存在であるヴィルジールがルーチェと共に民衆の前に姿を見せたところで、何も特別なことは起こりやしないとヴィルジールは思っていたのだが──。
「──見てください、ヴィルジールさま。花がたくさんっ……!」
ヴィルジールとルーチェが城門を出ると、長い列がふたりを出迎えた。なんと、民が行列を作っていたのである。彼らは花を手向けながら、お祝いの言葉やヴィルジールへの感謝を述べていた。
「──皇帝陛下! 皇后陛下! おめでとうございます!!」
「──ヴィルジール皇帝陛下! ルーチェ皇后陛下! 万歳!」
「──皇帝陛下のお陰で、冬を越せない民はいなくなりました!」
「──へいか、ぼくは字が書けるようになりましたよっ!」
民衆からの温かい歓迎と花の嵐は、ヴィルジールをとても驚かせたようで。
以前馬車で同じ道を通った時は、ヴィルジールはにこりともしていなかったが、今はこぼれるように顔を綻ばせていた。
パレードが終わると、近親者のみを集めた食事会が開かれた。参加者は王族であるセシル、エヴァンと先代宰相のセデン、アスランの家族であるデューク侯爵家、そしてノエルとファルシである。
ルーチェを驚かせるために、ヴィルジールが料理長に作らせた塔のような見た目のケーキは、甘い物が好きなルーチェを感動させた。
夜間にはノエルの魔法で空から四色の光が降り注ぎ、翌朝には神秘的な虹が空に架かり、この日は皇帝夫妻だけでなく、首都にいた人々も忘れられない一日となったのだった。


