珈琲に口をつけた彼が、ふと笑って脇にあるガムシロップの瓶を渡してきた。

 私は黙ってシロップを加える。

 「やっぱり、ほろ苦い味に、甘さを加えるのが好きなんだね」

 そんな何気ないひと言に、私の心の奥がかすかに揺れた。

 この人は、ちゃんと見てくれている。

 嘘をついているのに。

 本当の美緒じゃないのに。

 それでもそのまま、優しく包まれた気がして、私は気づかないふりで息を呑んだ。

 その瞬間、ほんの一瞬で、彼に惹かれてしまった。




 それからの彼との時間はまるで夢のようだった。

 彼と話していると、時間の流れ方が少しだけ違って感じた。

 冗談に笑って、好きな映画を語り合って、季節限定のケーキを半分こした。

 まるで、前にもこんなふうに笑い合ったことがあるような気さえしてくる。

 ほんの少し、『美緒』じゃなくてもいいんじゃないか‥‥

 そんな希望が、胸の奥でふわりと膨らんだ。





 私は休みの度にカフェに‥‥彼に会いに行った。

 カフェの扉を開けるたび、胸の奥が静かに高鳴った。

 彼の姿を見つけると、安心と緊張が同時に溶けていく。

 『美緒』という知らない人の借り物のままで。

 それなのに、彼といるときだけは、この夏の世界に“居場所”がある気がした。

 笑った顔を見られるだけで嬉しくて、

 何かを話すたびに“私じゃない私”が彼に少しずつ好きになられていくような気がして。

 それが、たまらなく幸せだった。